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フランス革命に続く‘ナポレオン’の登場。 歴史上の人物で一番たくさん映画に登場しているのがこのナポレオンだそうで、ダイヤモンドに触れるにも彼の事を書かないと全く意味をなさない、というところで少し彼の足跡を追ってみることにいたしましょう。 |
(ナポレオン、アントワープ来訪の図) |
当時のフランスは、外には対仏大同盟、内には王党派のテロなど不安定要素が山積。これを打開するため、ナポレオンはますます独裁色を強め、ついに1804年12月、“フランス人民の皇帝”に就任。 電光石火という言葉が良く似合うナポレオンですけども、瞬く間に欧州大陸の“皇帝”となりました。ほとんどの国を傘下に治め、兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就けたナポレオン、この頃が彼の絶頂期でありましょう。 しかし、議会制民主国家・英国との関係は冷え込むばかりか、逆に加速度的に悪化の一方。業を煮やした彼は‘大陸封鎖’という愚を犯します。当時の英国は‘世界の工場’と呼ばれたほどの工業国、大陸側は英国からの製品に頼っている面が多分にあり、旧来からの重農主義を脱しきれていなかったフランスが英国の代わりを務めることは出来るはずもなく、欧州諸国のみならずフランス自体の産業も苦境に陥ってしまうことになりました。 そして、それを打開すべく起こしたロシア遠征・・・、why? どうしてロシアなのか? 誠に解せない彼の強攻策、将兵のモチベーションは当然下がりっぱなし、そして・・・結果は皆さん良くご存知ですね、ロシア軍の粘りと冬将軍に完膚なまでの敗退、ナポレオンは失脚。
しかしながら、ナポレオン後の体制を話し合う「ウイーン会議」は、欧州諸国の思惑が複雑に交錯、かの有名な‘会議は踊る’ですね、その間、エルバ島に流されていたナポレオンはパリに戻り復活したのでございました。
えっ、違う? このワーテルローというのは、ベルギーの首都・ブラッセル郊外にありましてね、ウッキーも一度訪れたことがございます。 |
(古戦場・ワーテルロー、ライオン像の丘) |
ちなみにこの丘とライオン像、結構な大きさでありまして、丘はエジプトのピラミッドほどとは言えないまでも、階段を登って頂上までかなりの段数があったように記憶しております。ライオン像の周囲、土台の部分が展望台になっているのですが、多くの人がゆっくりと眺望を楽しむスペースがありましたから、ライオンの大きさも相当のものと推測していただけるのではないかと思います。 下の画像は丘の頂上、ライオン像のところから撮ったものなんですが、 |
さて、ヨーロッパをさんざんにすったもんださせたナポレオン、直接的に彼の力が及んだのはわずか十数年の間でしたが、後々まで大きな影響を残しました。
そして軍事関連では実に影響力が大ですな。 ユニークなところでは、現代の我々が着用している上着の袖口についているボタンね、3つ4つ付いておりますが、こんなところにボタンなんて全く意味不明と思われる方も多いと思いますけども、これもナポレオンの発想。なんでや?? ロシア遠征の折に寒いものだから兵隊が鼻水をやたら垂らしまくってね、ティッシュなんてないからついつい袖口で鼻水を拭う、するともう軍服が汚れてダラシナイことこの上ない、っていう訳で鼻水を拭けないようにと袖口にボタンを取り付けたとのことです。
ナポレオンに関する逸話は数限りないですが、思っていたよりも人間的なものが多いのも事実で、例えば、
それから、
何を隠そうこのウッキーも伝票の文字と数字がサッパリ読めんと常に家内に叱られているのです。
ナポレオンは、 やれやれ・・・というところでやっと本題が始まります。 フランス革命により、宝石屋の大お得意先様であるフランスの貴族たちが迫害され、ダイヤモンド業界は一時大きな不況に陥りますが、Ancian Regime(アンシャン・レジューム、革命前の旧体制)政権にならって、できるだけ贅沢な生活をしようとする新帝国の貴族階級がすぐに発生し、彼らのお蔭で業界は息を吹き返します。
Antwerpのダイヤ研磨職人は、辛うじて生き残っておりましたが、仕事が来ることは稀。そんな時、彼らが何をしていたかというと、Diamondを研磨する機械の上で葉巻を作ったり靴を修理していた、と言いますからホント聞いているだけで涙がこぼれそう。 ギルド時代の名残は唯一なんら拘束力のない団体として残っておりましたが、この活動は祝祭や記念の式典のみに制限されておりました。それでもダイヤ研磨職人たちは、自分たちただひとつのリンク先として心の拠り所としていたとのこと。 一方、ナポレオンの弟・ルイを王に戴くオランダは、その虎の威を借る狐の恩恵を十分享受できたようです。厳格な規制を掻い潜っての輸出入をやって、ルイにゼニ渡してお目こぼしをしてもらっていたということですね。いつの時代にもある悪代官と越後屋じゃ。 そんなオランダが、ナポレオン没落後、それまでの貯金を使っていち早くダイヤモンド産業を復興・興隆させたというのですから、もうほんまムカつきまんな。 この頃のちょっとした笑い話?ユニークな話題は、手動のダイヤ研磨機械に代わって、馬の力による研磨機械の登場、なんやて??ダイヤ研磨に何十馬力というようなパワーが必要なのか?! いえいえ、そうではなくて、研磨工場に隣接した広場で馬を歩かせ、馬に繋いだロープを数台の研磨機械と接続させて機械を動かしていたということなんですけども、想像しただけでもコミカルで、実際その様子を見たならば大爆笑かもしれませんね。もし馬が跳ねたり走り出したりしたらダイヤはどうなったのやろ?とかってヘンに心配したりしてしまいますけども、しかしこの馬力研磨は1840年ごろまで続いたというのですから全く馬鹿にはできまへ〜ん。 馬力の後に本格的な産業革命の到来です。
蒸気機関の発明と改良。 そしてそして時代は流れ・・・いよいよと言うべきか、
業界にとってこれ以上の大変革はないでしょうね、ダイヤモンド業界史トップニュースは何と言っても、 ナポレオンの登場以降、南アフリカのダイヤモンド鉱山が稼動し始めるまでという時代、Antwerpのダイヤモンド産業はほとんど眠ったような状態でありましたが、1865年、新しいダイヤ研磨工場が建設されたのでありました。これは、パリとアムステルダムの商人が伝統あるAntwerpの職人技を生かそうと思い付いてのことでありますが、今から振り返るとこの出来事は“南ア時代”の前夜祭であったかもしれません。何故ならば、南アフリカでダイヤが発見されるのが2年後の1867年。そして、時を同じくしてブラジルなど南アメリカからヨーロッパへのダイヤ原石の供給は激減するのであったのですから。
もしも南アのダイヤがなかったならば・・・、Antwerpのダイヤ職人はどうなったことでしょうか、アムステルダムに避難所を見出したのでしょうか? 今日、南アフリカの鉱山は世界の最も重要なDiamond供給源であり、近代的な機械や技術とともにこの100年間ダイヤモンド産業を支えてきたのであります。 その鉱脈発見のストーリーはどんなものだったのでしょう。 Hopetown近く、オレンジ川沿いに住む農民、Jadobsの子供たちがキラキラ輝く石を川底から見つけたのでありました。近所の農民であるNiekerkがそれを預かり、O’relyというハンターに渡し、そしてそれがGrahamstownの鉱物学者によって検査にかけられDiamondと判定されたのです。
その後、そのダイヤはパリの万国博に出展されたあと、南ア地域の英国人統治者であるPhilip Woodhouseによって500英国ポンドで買い取られたとのこと。この金額がどれほどの値打ちなのかちょっと解らないけども、 さ〜て大変なことになったオレンジ川沿い、でございますね。
こんなものが獲れたのだから、皆さんほっとくわけないよね、
これにより、いくつかの開発者が一緒になって、集団で効率よく掘り出そうという試みがなされるようになったそうでありますが、そうした中で台頭してきたのが、 驚くなかれ、彼はなんと18歳の時に弟と一緒にこのエリアにやってきて、これが学校の休暇を利用してというから元々リッチな生まれだったのしょう、ちょっとダイヤモンド掘り出しの現場に入れてもらって見物しようということだったらしいのですが、いつの間にやら入れ込んでしまったというわけ、たまらんガキでんなホンマ。 |
De Beersは、競合するKimberly Mining Companyを買収し、1889年にはついに世界のダイヤモンドの90%を握るまでに至ったということですからCecil少年はとんでもない化けモンやったんやね。
これに先立つこと100年余り前、この地を訪れたキリスト教のミッション、宣教師が、アフリカにダイヤ鉱脈があるに違いないという情報と地図をヨーロッパに持ち帰っていたそうですな。しかしながら、誰もこれを信じようとせずに、このファンタスティックなお話と地図はお蔵入り。この時、誰か敏感にこの話に反応したらどういう動きになったのか? ローズは後年“アフリカのナポレオン”と呼ばれます。ダイヤモンドの世界を支配するや、その資金力で政界に進出。1890年にはついに英国領ケープ植民地(南アフリカ)の首相にまで登りつめました。そして南アフリカの北のエリアに遠征軍を派遣、現在のザンビアとジンバブエに相当する地域を征服し、彼の名にちなんで‘ローデシア’と命名しました。
ローズの設立したDe Beersはどうなったのか?
現在のDe Beersは、概ね初代オッペンハイマー会長が形作った組織で活動しているようでありますけども、De Beersという名があまりにも有名になりすぎ、そしてその名でもって生産から小売までやっているということがアメリカの独占禁止法に抵触するということで色々と分社化を図りまして、今ではテレビコマーシャルは“DTC”(the Diamond Trading Co.)の社名でやっております。しかし実態は何も変わっておりませんね、昔のまま、‘婚約指輪は給料3か月分よ’という1980年頃のCM当時のままのDe Beersの姿です。 さて、このDe Beers、どのくらいパワーがあるのか?それは本当に恐ろしいばかり。 一時、1980年前後の事ですが、イスラエルがユダヤ人国家ながらも国運を賭けてDe Beersの向こうを張って同じユダヤ人のオッペンハイマー家に挑みかけました。“第2De Beers”を作ろうとでもしたのでしょうか、De Beersを通さない南アからの直接買い付けや大々的な研磨販売システムの構築を企てましたが、結果的に供給過剰からの価格暴落という事態を呼び起こしてしまい、ついにはイスラエルのダイヤモンド業界もDe Beers傘下に入ることになりました。これはイスラエル側の読みや目論見が甘かったというよりも、イスラエルのやり方がDe Beersの逆鱗に触れてガツン!とやられて計画をぶっ飛ばされたという方が正しいと思います。 そう考えますと、当時のイスラエルにとっての最大の顧客であったイランに革命が起ったこと(1979年)、これもなにやらキナ臭い・・・De Beersが黒幕のひとつだったのではないかと思えてきます。
ウッキーが頻繁にイスラエルに買い付けに行っていた頃のこと、ある事務所の親分に聞いた話なのですけども、 この豊かさは石油資源によるものが大きいことに違いありませんが、統治者であるパーレビ朝が、農地改革や国営企業の民営化、婦人参政権、識字率向上などの政策を進めたこともしっかりと景気を下支えしておりました。
ならばどうして革命が起こって大昔のような宗教国家になってしまったのか?
どんどん話は横道へ逸れてゆきますが、 2、3年前、ブラッセルからアムステルダムに向かう機上で、ホンマのイラン人から話し掛けられた事があります。70歳は過ぎているだろうと思われる男性で、何となく人生に疲れているような雰囲気。この人がいきなり、『アンタ日本人やろ、ちょっと教えてくれへんかなあ。今まとまった金額のドルを持っているけども、それを運用するには何が一番効率ええかな?』なんて聞いてくる。あのね、日本人が一番苦手な部門やろな、そういうのはユダヤ人に聞きなさ〜い、しかもウッキーに聞いても全く参考にならんやろな、と言いたかったのだけれども、『フムフム、それはね・・・』なんて喋りだしたウッキーだったのでした、ホンマ呆れるわ!
さて、このオジサン、ウッキーなんぞよりもよほど上手なEnglishでボキャも豊富、しかしこのくたびれた格好、いったい何奴!? ひょっとしたら諜報機関の人間かも・・・と思っていたらイランの歴史と自分の境遇を喋りだしたのでした。
聞いているウッキーは何も言うことができずに、同じようにクラ〜い気分に浸ってしまったのであります。
えーっと、なんでしたかな?
そしてカラーダイヤは?? 南アの新しい鉱脈の発見は、大きな混乱とともに山師や投資家を大挙集合させ、1870年ごろから前例がないほど多量のダイヤモンド原石が市場に出回り始めるようになったのでした。Amsterdamは許容限度の1.5倍を超えるダイヤ研磨を受注。一方、Antwerpの復活も目覚しく、他地方からの移住者も増えだしました。南アから大量の原石が欧州に運び込まれたにも関わらず、供給が追いつかないほど需要があり、研磨依頼が引きも切らなかったということです。一体どういう好景気なのでしょうね、想像も出来ませんけども。恐らく、南米のダイヤモンド鉱脈が枯れ、そこに折り良く出現した南アの大鉱脈ということで、ここぞとばかりの投資が過熱したということかもしれませんね。
ダイヤ研磨職人の賃金はどんどん跳ね上がります。
職人たちは、こんなに貰っても使いようがなったに違いないですな。仕事が多くて給料が良いというのは時に困りものでございます、そういう境遇になってみたいけれども・・・・。多くの職人たちは1日の仕事が終ってお酒くらいしか楽しみがない、“酔っ払って街を赤く染める奴ら”と言われ、厄介者扱いされていたとか。 このような具合ですから、所謂やっつけ仕事になりがち、研磨の質も落ちてきて当たり前。ここに来てAntwerp開闢以来初めてと言ってよいほど低レベルな出来そこないの数々。なんという情けなさでありましょう、先人達が苦労して、それこそ不景気を乗り越え乗り越えしながら伝えてきた技術なのにね。いつの間にやら時代の好況に載っているだけの存在に成り下がってしまったわけです。 しかし好況の後に不況が来るのは世の常、ついにまた供給過剰状態がやってきたのでありました。市場は飽和、RapaportやUkiportのような市場価格指標がなかったこともあり、ダイヤモンド相場は極端に値下がりを繰り返し、短期間で約60%もの価格ダウンという有様となってしまいました。 このようなことを背景にして、19世紀終わりから20世紀にかけてはUnion(労働組合)と、それに対抗すべく生まれた経営者側の組織Diamond Clubが登場します。 共産主義社会主義思想が勃興したことにより、労使関係は一気に現代のような様相を呈してまいります。そして、法律の整備が現実に対応しきれておりませんでしたから、Union側はどんどんと社会主義的な傾向を帯びてゆきます。1887年、Antwerp Diamond Worker’s Associationが設立され、多くの研磨職人たちが参加することになりました。しかし、経営者に対する彼らの要求は、現代の我々から見ると至極当然のことばかり、例えば、労働環境を衛生的に保つ事、職場で使用する燃料等の経営者負担などなど。 ダイヤモンド研磨というのは、他の産業に比べてそうそう大掛かりな機械を使うわけでもなく危険でもなかったですから、経営者たちは容易に労働者達の要求に応えることが出来たに違いないですね。そしてまた組合側も政治的なことに首を突っ込んで訳の解らない要求したりという20世紀なかばからの変な組合ではなかったようで、女性労働者に対する保護や、14歳未満の者を雇ってはならないという幼年労働の禁止といった斬新な方針を打ち出しておるのがこの頃の特徴でありましょう。 |
(アントワープ駅前通り、19世紀末) |
自然発生的なこの集いは徐々に参加者も増え、カフェでの密談という訳にはゆかなくなりました。ならばと言うので、大邸宅を持つ者が自宅を提供。そしてそのうちに、相談ばかりしているのではなく“商談の場”も兼ねることになり、商い高が増えるに従って個人の家では何かと不都合、名称も‘Antwerp Diamond Club’としてダイヤモンド街のメインストリートであるペリカン通りにビルを持つこととなりました。
このダイヤモンド・クラブというもの、実に画期的。世界各地から売り手と買い手を集結させることとなり、Antwerpは一躍、世界屈指の研磨工場とともに世界一の研磨済み(ルース)ダイヤモンド取引所としての地位を確立したのでありました。 |
(ペリカン通り) |
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