第7章     大変革とダイヤモンド

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フランス革命に続く‘ナポレオン’の登場。
これはヨーロッパを大きく変えてしまいました。
なんせ欧州大陸は、ロシアとスウエーデンを除いてほとんどが彼の領地となってしまったのですからね。
強烈な大変革。
当然ながらギルドなんていう前近代的なシステムは一夜にして、いえ、ナポレオン署名の一枚の命令書により一瞬にして解体されてしまいました。

歴史上の人物で一番たくさん映画に登場しているのがこのナポレオンだそうで、ダイヤモンドに触れるにも彼の事を書かないと全く意味をなさない、というところで少し彼の足跡を追ってみることにいたしましょう。

ナポレオン、アントワープ来訪の図
(ナポレオン、アントワープ来訪の図)


ナポレオンの華々しい活動は1790年頃からですね。
1793年、英国艦隊に占拠されたトゥーロン攻撃作戦で活躍し少将となり、1795年にはパリで起こった王党派の反乱を鎮圧し、師団長に昇進。
その後、1798年、英国の最も重要な植民地であるインドと本国の連携を絶つことを画策、自らカイロに入城。
そして、フランスが危機に陥ったのを見てエジプトを脱出、パリに戻るやいなやクーデタを起こして総統政府を樹立し、実質的に独裁権を掌握。

当時のフランスは、外には対仏大同盟、内には王党派のテロなど不安定要素が山積。これを打開するため、ナポレオンはますます独裁色を強め、ついに1804年12月、“フランス人民の皇帝”に就任。

電光石火という言葉が良く似合うナポレオンですけども、瞬く間に欧州大陸の“皇帝”となりました。ほとんどの国を傘下に治め、兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就けたナポレオン、この頃が彼の絶頂期でありましょう。

しかし、議会制民主国家・英国との関係は冷え込むばかりか、逆に加速度的に悪化の一方。業を煮やした彼は‘大陸封鎖’という愚を犯します。当時の英国は‘世界の工場’と呼ばれたほどの工業国、大陸側は英国からの製品に頼っている面が多分にあり、旧来からの重農主義を脱しきれていなかったフランスが英国の代わりを務めることは出来るはずもなく、欧州諸国のみならずフランス自体の産業も苦境に陥ってしまうことになりました。

そして、それを打開すべく起こしたロシア遠征・・・、why? どうしてロシアなのか? 誠に解せない彼の強攻策、将兵のモチベーションは当然下がりっぱなし、そして・・・結果は皆さん良くご存知ですね、ロシア軍の粘りと冬将軍に完膚なまでの敗退、ナポレオンは失脚。

しかしながら、ナポレオン後の体制を話し合う「ウイーン会議」は、欧州諸国の思惑が複雑に交錯、かの有名な‘会議は踊る’ですね、その間、エルバ島に流されていたナポレオンはパリに戻り復活したのでございました。
デメたしデメたし、

えっ、違う?
歴史はまだまだ続いておる!
そうですね、
奇跡的な復帰を遂げたナポレオンでしたが、かつて冴えわたった頭脳も失われ、乾坤一擲、勝負を賭けた‘ワーテルローの戦い’に完敗。
ここについにナポレオン時代が終焉したのでしたね。

このワーテルローというのは、ベルギーの首都・ブラッセル郊外にありましてね、ウッキーも一度訪れたことがございます。

古戦場・ワーテルロー、ライオン像の丘
(古戦場・ワーテルロー、ライオン像の丘)


かつての戦場であった畑の中に建つ『ライオン像』、
これは敗れ去ったフランス軍の武装解除をして後、その銃剣大砲を鋳潰した金属で作られたそうです。そして、ナポレオンのような独裁者が2度と欧州を席巻しないよう“睨みをきかしている”とのことですが、なかなか世の中うまくゆかないもので・・・。

ちなみにこの丘とライオン像、結構な大きさでありまして、丘はエジプトのピラミッドほどとは言えないまでも、階段を登って頂上までかなりの段数があったように記憶しております。ライオン像の周囲、土台の部分が展望台になっているのですが、多くの人がゆっくりと眺望を楽しむスペースがありましたから、ライオンの大きさも相当のものと推測していただけるのではないかと思います。

下の画像は丘の頂上、ライオン像のところから撮ったものなんですが、
放牧されている馬か牛の姿も見え、まことにノンビリとした田舎の情景ですな。この風景を見ておりまして、人間の欲望とは如何なるものなのか実に不思議に思えてきたものでした。いつの時代でも変わらぬ人間の野望と物欲、そしてその“物欲”の象徴みたいなダイヤモンド。見渡す限りの麦畑や牧場で一生を過ごすのも人間なら、世俗の欲望に塗れながら戦に明け暮れるのも人間・・・・、尽きせぬ思い拡がる欧州大陸の風景です。

丘

さて、ヨーロッパをさんざんにすったもんださせたナポレオン、直接的に彼の力が及んだのはわずか十数年の間でしたが、後々まで大きな影響を残しました。
有名なところでは『ナポレオン法典』ですね。
万民の法の前の平等、信仰の自由、経済活動の自由などを謳って、後の世界各国の民法の基礎となっております。本家のフランスでは、現在でもナポレオン法典が現行法とか。それにしては何か矛盾感じるけどね。

そして軍事関連では実に影響力が大ですな。
クラウゼヴィッツの“戦争論”で理論化されたのはナポレオン軍の用兵やシステムが中心。軍用保存食として『瓶詰め』が発明されたというのもあるそうです。

ユニークなところでは、現代の我々が着用している上着の袖口についているボタンね、3つ4つ付いておりますが、こんなところにボタンなんて全く意味不明と思われる方も多いと思いますけども、これもナポレオンの発想。なんでや??

ロシア遠征の折に寒いものだから兵隊が鼻水をやたら垂らしまくってね、ティッシュなんてないからついつい袖口で鼻水を拭う、するともう軍服が汚れてダラシナイことこの上ない、っていう訳で鼻水を拭けないようにと袖口にボタンを取り付けたとのことです。

ナポレオンに関する逸話は数限りないですが、思っていたよりも人間的なものが多いのも事実で、例えば、
一日に3時間しか寝てなかったと言われているけども、昼寝をしっかり取っていた・・・・な、なんと・・ウッキーの同級生でナポレオンの真似して受験勉強したやつがおったけども、成果上がらんはずやね。

それから、
友人に宛てた手紙があまりにも悪筆で、戦場の地図と間違われた。やっぱり頭のええ人間は悪筆なんやね、日本人で有名な“悪筆人”は信長だそうですが、信長が言うには『言葉が脳の中で迸り、筆が追いつかない(丁寧に書いていると考えたついたことを忘れてしまう)』とのこと。

何を隠そうこのウッキーも伝票の文字と数字がサッパリ読めんと常に家内に叱られているのです。
えっ、何? ウッキーは単なる低脳悪筆、中身がまるで違う?!
まあよろしい、


そして、
ナポレオンはオンチで胃下垂で痔。もうどうしようもないですな、ちなみにウッキーは小さい時からウイーン少年合唱団と言われたほどの美声の健康体です、もうええって。

ナポレオンは、
「余の辞書に不可能という文字はない」
と言ったそうですけども、実際は、
Impossible, n’est pas francais.
が正しいのですね。
「不可能という言葉はフランス的ではない」
という意味でんな。

やれやれ・・・というところでやっと本題が始まります。

フランス革命により、宝石屋の大お得意先様であるフランスの貴族たちが迫害され、ダイヤモンド業界は一時大きな不況に陥りますが、Ancian Regime(アンシャン・レジューム、革命前の旧体制)政権にならって、できるだけ贅沢な生活をしようとする新帝国の貴族階級がすぐに発生し、彼らのお蔭で業界は息を吹き返します。


1804年の戴冠式でナポレオンは、皇后ジョーゼフィンの王冠に合計880個、260カラットものダイヤをセッティングしたのでした・・・・・260カラットでっせ、ぎゃおーーーーーー
アホくさいね、 何のために革命やったんや!! 
全く白人どものやることは支離滅裂!!!


しかしながら、ナポレオンの対英戦争の一環としてなされた‘大陸封鎖’は実に深刻な事態をダイヤモンド業界にもたらします。欧州大陸の全ての港は、フランス製品以外の出入りを禁じられたのです。物流が大きく制限されるという意味は、人間の出入りも制限されることですからね、経済効果もなにもあったものじゃない、ダイヤ業界だけではなくて全ての産業に悪循環が蔓延しますね、欧州大陸は火が消えたようになったことでしょう。

Antwerpのダイヤ研磨職人は、辛うじて生き残っておりましたが、仕事が来ることは稀。そんな時、彼らが何をしていたかというと、Diamondを研磨する機械の上で葉巻を作ったり靴を修理していた、と言いますからホント聞いているだけで涙がこぼれそう。
ギルド時代の名残は唯一なんら拘束力のない団体として残っておりましたが、この活動は祝祭や記念の式典のみに制限されておりました。それでもダイヤ研磨職人たちは、自分たちただひとつのリンク先として心の拠り所としていたとのこと。

一方、ナポレオンの弟・ルイを王に戴くオランダは、その虎の威を借る狐の恩恵を十分享受できたようです。厳格な規制を掻い潜っての輸出入をやって、ルイにゼニ渡してお目こぼしをしてもらっていたということですね。いつの時代にもある悪代官と越後屋じゃ。

そんなオランダが、ナポレオン没落後、それまでの貯金を使っていち早くダイヤモンド産業を復興・興隆させたというのですから、もうほんまムカつきまんな。

この頃のちょっとした笑い話?ユニークな話題は、手動のダイヤ研磨機械に代わって、馬の力による研磨機械の登場、なんやて??ダイヤ研磨に何十馬力というようなパワーが必要なのか?! いえいえ、そうではなくて、研磨工場に隣接した広場で馬を歩かせ、馬に繋いだロープを数台の研磨機械と接続させて機械を動かしていたということなんですけども、想像しただけでもコミカルで、実際その様子を見たならば大爆笑かもしれませんね。もし馬が跳ねたり走り出したりしたらダイヤはどうなったのやろ?とかってヘンに心配したりしてしまいますけども、しかしこの馬力研磨は1840年ごろまで続いたというのですから全く馬鹿にはできまへ〜ん。

馬力の後に本格的な産業革命の到来です。

蒸気機関の発明と改良。
手動や馬力に蒸気機関が取って代わってダイヤモンドの研磨も多いに進歩しました。

そしてそして時代は流れ・・・いよいよと言うべきか、

業界にとってこれ以上の大変革はないでしょうね、ダイヤモンド業界史トップニュースは何と言っても、
南アフリカ鉱山の発見とDe Beersの誕生
でございますね。

ナポレオンの登場以降、南アフリカのダイヤモンド鉱山が稼動し始めるまでという時代、Antwerpのダイヤモンド産業はほとんど眠ったような状態でありましたが、1865年、新しいダイヤ研磨工場が建設されたのでありました。これは、パリとアムステルダムの商人が伝統あるAntwerpの職人技を生かそうと思い付いてのことでありますが、今から振り返るとこの出来事は“南ア時代”の前夜祭であったかもしれません。何故ならば、南アフリカでダイヤが発見されるのが2年後の1867年。そして、時を同じくしてブラジルなど南アメリカからヨーロッパへのダイヤ原石の供給は激減するのであったのですから。

もしも南アのダイヤがなかったならば・・・、Antwerpのダイヤ職人はどうなったことでしょうか、アムステルダムに避難所を見出したのでしょうか?
いずれにしても、南ア鉱脈なくてはダイヤモンド産業の将来は暗いものだったに違いありません。

今日、南アフリカの鉱山は世界の最も重要なDiamond供給源であり、近代的な機械や技術とともにこの100年間ダイヤモンド産業を支えてきたのであります。

その鉱脈発見のストーリーはどんなものだったのでしょう。

Hopetown近く、オレンジ川沿いに住む農民、Jadobsの子供たちがキラキラ輝く石を川底から見つけたのでありました。近所の農民であるNiekerkがそれを預かり、O’relyというハンターに渡し、そしてそれがGrahamstownの鉱物学者によって検査にかけられDiamondと判定されたのです。

その後、そのダイヤはパリの万国博に出展されたあと、南ア地域の英国人統治者であるPhilip Woodhouseによって500英国ポンドで買い取られたとのこと。この金額がどれほどの値打ちなのかちょっと解らないけども、
その重量21.25crts、ワオッ! 
ということを考えると何だか安すぎるような・・・
ほとんど略奪に近いね、またまたムカつく!

さ〜て大変なことになったオレンジ川沿い、でございますね。

こんなものが獲れたのだから、皆さんほっとくわけないよね、
大挙して乱入した山師たち、そして、ダイヤモンドラッシュに湧く南ア地方。
しかしながら、皆さん好き勝手にやったものだから、かなりのトラブルに遭遇したようでございます。430もの鉱区があったというのだからホンマ大変なもんです。そしてそれぞれが独自のシステムで掘り出したダイヤを地表へと運んでいたということで、坑道内の通信ケーブルの混乱とか坑道側壁の崩壊などを引き起こしたとのこと。

これにより、いくつかの開発者が一緒になって、集団で効率よく掘り出そうという試みがなされるようになったそうでありますが、そうした中で台頭してきたのが、
下の写真Cecil Rhodesなのですな。

驚くなかれ、彼はなんと18歳の時に弟と一緒にこのエリアにやってきて、これが学校の休暇を利用してというから元々リッチな生まれだったのしょう、ちょっとダイヤモンド掘り出しの現場に入れてもらって見物しようということだったらしいのですが、いつの間にやら入れ込んでしまったというわけ、たまらんガキでんなホンマ。

Cecil Rhodes


彼が設立したのがDe Beers
このDe Beersという名称は、ダイヤ鉱区を元々所有していた農民の名前だったそうです。この人、一体どんな人やったのかねえ、名前は超有名になったけども、二束三文で土地を手放したんちゃうかとね、ちょっと気になりまんな。

De Beersは、競合するKimberly Mining Companyを買収し、1889年にはついに世界のダイヤモンドの90%を握るまでに至ったということですからCecil少年はとんでもない化けモンやったんやね。

これに先立つこと100年余り前、この地を訪れたキリスト教のミッション、宣教師が、アフリカにダイヤ鉱脈があるに違いないという情報と地図をヨーロッパに持ち帰っていたそうですな。しかしながら、誰もこれを信じようとせずに、このファンタスティックなお話と地図はお蔵入り。この時、誰か敏感にこの話に反応したらどういう動きになったのか?
ちょっと歴史のIfを考えてみたくなるストーリーではあります。

ローズは後年“アフリカのナポレオン”と呼ばれます。ダイヤモンドの世界を支配するや、その資金力で政界に進出。1890年にはついに英国領ケープ植民地(南アフリカ)の首相にまで登りつめました。そして南アフリカの北のエリアに遠征軍を派遣、現在のザンビアとジンバブエに相当する地域を征服し、彼の名にちなんで‘ローデシア’と命名しました。


いやはや何とも凄い男、元はキンバリー鉱山で『つるはし握ってた少年鉱夫』でっせ、それがアっという間に英国本土の約5倍にもあたる地域の帝王になったのですからね。


しかしながら、彼の末路も本モノのナポレオンと同じ、更なる領土を求めたことで世界中からバッシングの嵐、本国政府からも見放され、ついに四面楚歌。ローズは完全に失脚し、そのままボーア戦争に巻き込まれ、救出されたものの健康を悪化させて49歳の若さで世を去ったのであります。

ローズの設立したDe Beersはどうなったのか?
“Life is short, Business is long.”
の諺通りですね、マーケットシェアをほとんど独占して価格をコントロールするというローズの手法はDe Beersの後継者たちに受け継がれました。ローズは事業拡大するにあたって、ユダヤ系財閥のロスチャイルドから融資を受けましたが、これがダイヤモンド業界をユダヤ人たちが握ってしまう発端と考えてもよいでしょう、ローズ亡き後、ロスチャイルドの息の掛かった経営陣がどんどんと事業をシステム化組織化し、ダイヤモンドのビジネスを整えてゆくことになります。


そして、1930年にドイツ系ユダヤ人であるオッペンハイマーがDe Beersの会長に就任するや、そのダイヤモンド統治機構は完成されたものとなったのですね。

現在のDe Beersは、概ね初代オッペンハイマー会長が形作った組織で活動しているようでありますけども、De Beersという名があまりにも有名になりすぎ、そしてその名でもって生産から小売までやっているということがアメリカの独占禁止法に抵触するということで色々と分社化を図りまして、今ではテレビコマーシャルは“DTC”(the Diamond Trading Co.)の社名でやっております。しかし実態は何も変わっておりませんね、昔のまま、‘婚約指輪は給料3か月分よ’という1980年頃のCM当時のままのDe Beersの姿です。

さて、このDe Beers、どのくらいパワーがあるのか?それは本当に恐ろしいばかり。

一時、1980年前後の事ですが、イスラエルがユダヤ人国家ながらも国運を賭けてDe Beersの向こうを張って同じユダヤ人のオッペンハイマー家に挑みかけました。“第2De Beers”を作ろうとでもしたのでしょうか、De Beersを通さない南アからの直接買い付けや大々的な研磨販売システムの構築を企てましたが、結果的に供給過剰からの価格暴落という事態を呼び起こしてしまい、ついにはイスラエルのダイヤモンド業界もDe Beers傘下に入ることになりました。これはイスラエル側の読みや目論見が甘かったというよりも、イスラエルのやり方がDe Beersの逆鱗に触れてガツン!とやられて計画をぶっ飛ばされたという方が正しいと思います。

そう考えますと、当時のイスラエルにとっての最大の顧客であったイランに革命が起ったこと(1979年)、これもなにやらキナ臭い・・・De Beersが黒幕のひとつだったのではないかと思えてきます。

ウッキーが頻繁にイスラエルに買い付けに行っていた頃のこと、ある事務所の親分に聞いた話なのですけども、
ホメイニによるイスラム革命が起こる前、イランはオイルマネーと改革により西アジアNo.1の豊かな国であり、ダイヤ需要も相当なものだったそうです。このオッサンは毎月のように商品しこたま持ってイランに売り込みに行っていたそうで、『毎回バケツ一杯分くらいの量は簡単に売れた』とのこと。大袈裟にしろ、何となく雰囲気は分かりますね。まあなんせ、革命の広がりでもうかなりヤバい情況になってきて、この飛行機を逃したら帰国できなくなるかもしれないという瞬間までイランで商売していたそうですから強烈な得意先であったのは間違いないようです。

この豊かさは石油資源によるものが大きいことに違いありませんが、統治者であるパーレビ朝が、農地改革や国営企業の民営化、婦人参政権、識字率向上などの政策を進めたこともしっかりと景気を下支えしておりました。

ならばどうして革命が起こって大昔のような宗教国家になってしまったのか?
どうもよく解らないですね。改革の実行があまりにも強権的で宗教勢力や旧富裕層の反感を買ったというように説明づけられておりますが、これを鵜呑みにしてよいものなのか? アメリカが何か企んで失敗してホメイニの政権が出来てしまったとも考えられますけども、De Beersの元を押さえているのがロスチャイルドだけにDe Beers陰謀説というのもやはりありそうです。

どんどん話は横道へ逸れてゆきますが、
イラン人というと日ハムのダルビッシュが有名ですね。最近ますます自信を深め、高い鼻がますます増長しそうな勢いですな。けれども彼はルックス以外ほとんど大阪人です。ウッキーの愚息が奴よりも学年が一つ上でね、彼らが小学校の5、6年生だったころ、ウッキーは息子が入っている少年野球チームのコーチをやっていた時期がありました。とある大会で対戦したチームにやたら生意気そうな外人風の少年が・・・と記憶しておりましたら、なんとこれがダル!当時から奴は投手でね、しかしとことんコントロールが悪くて、四死球押し出しばっかり、まるでダメ。ああいう奴ほど将来楽しみというのを絵に描いたような奴やったね、とまあこんなことはどうでもよろしいが・・・、

2、3年前、ブラッセルからアムステルダムに向かう機上で、ホンマのイラン人から話し掛けられた事があります。70歳は過ぎているだろうと思われる男性で、何となく人生に疲れているような雰囲気。この人がいきなり、『アンタ日本人やろ、ちょっと教えてくれへんかなあ。今まとまった金額のドルを持っているけども、それを運用するには何が一番効率ええかな?』なんて聞いてくる。あのね、日本人が一番苦手な部門やろな、そういうのはユダヤ人に聞きなさ〜い、しかもウッキーに聞いても全く参考にならんやろな、と言いたかったのだけれども、『フムフム、それはね・・・』なんて喋りだしたウッキーだったのでした、ホンマ呆れるわ!


なんて答えた?
『ユーロに換えなはれ、ユーロがよろしいでえ、ベルギーに来る度にユーロが値上がりしている、これは当分続くのとちゃいますか』
このウッキーの読みは今のところ当たっておりますね、自分の金を使う時もこのような判断できたらええのにね、ホンマにもう!

さて、このオジサン、ウッキーなんぞよりもよほど上手なEnglishでボキャも豊富、しかしこのくたびれた格好、いったい何奴!? ひょっとしたら諜報機関の人間かも・・・と思っていたらイランの歴史と自分の境遇を喋りだしたのでした。


『イスラム革命は全く失敗だった、あんなものやるべきではなかった、革命前の豊かさは無に帰し、今や若者の失業率は30%を越えている、当然ながら治安も良くないし、出口の見えぬ不況に皆の表情は暗い。私は元教師、教職にあった者がこういうことを言ってはいけないけれども、この国の体制、なんとか変える方法はないものか・・・』

聞いているウッキーは何も言うことができずに、同じようにクラ〜い気分に浸ってしまったのであります。


人はパンのみでは生きてゆけませんけども、凡人には信仰もある程度は必要なのでしょうけども、宗教が生きる目的となってしまっているイスラム原理主義は恐ろしいですな。女性が表で顔を隠さないといけないイスラム圏には恐らく女性をジュエリーで飾るというような発想なんてないでしょう。イメージはとことん白黒の世界です。ダイヤの話をすることのできる我々はホントHappyこの上ございません。


彼と別れてAmsterdamから帰国の途についたウッキー、しみじみとまた日本の平和と豊かさについて思いを巡らせたことでございました。ダイヤモンドを消費できる国の幸せ、とでも表現すれば良いのでしょうか、ダイヤモンドの一大消費国から宝石とはまるで縁のない国になってしまったイランの例はあまりにも極端ですけども、女性が普通にダイヤモンドを身に付けることの出来る国、この日本や欧米にカラーがあり、そして生き生きとした人間の営みがあるのですね。

えーっと、なんでしたかな?
そうそうDe Beers、
このようにして、セシル・ローズが創業したDe Beersは世界のダイヤモンドの生産と販売を見事に統制するようになりました。この統制とかコントロールとかという言葉からは悪者イメージが常に付いてまわりますが、全くのフリーマーケットとすると間違いなく供給過剰になります。それでなくとも世界各地から新しいダイヤ鉱山発見のニュースが伝えられ、その度にDe Beersは多額の銭を使って買収を繰り返している、その資金を捻出する為にまた原石の値上げ、近年はこの繰り返しのようですね。何となく感じまするに、De Beersがコントロールする無色透明のノーマルなダイヤモンドは、日本での需要が徐々に減っているような・・・。生産の過剰が逆に価格の高騰を呼ぶという矛盾、そしてそれに伴う消費者のダイヤ離れ、ノーマルな無色透明ダイヤを扱うのも大変な時代です。

そしてカラーダイヤは??
供給がまるで足らない!!
なんとかしろ、De Beers!!!

南アの新しい鉱脈の発見は、大きな混乱とともに山師や投資家を大挙集合させ、1870年ごろから前例がないほど多量のダイヤモンド原石が市場に出回り始めるようになったのでした。Amsterdamは許容限度の1.5倍を超えるダイヤ研磨を受注。一方、Antwerpの復活も目覚しく、他地方からの移住者も増えだしました。南アから大量の原石が欧州に運び込まれたにも関わらず、供給が追いつかないほど需要があり、研磨依頼が引きも切らなかったということです。一体どういう好景気なのでしょうね、想像も出来ませんけども。恐らく、南米のダイヤモンド鉱脈が枯れ、そこに折り良く出現した南アの大鉱脈ということで、ここぞとばかりの投資が過熱したということかもしれませんね。

ダイヤ研磨職人の賃金はどんどん跳ね上がります。
このお話の資料が書かれた時(1970年頃)の貨幣価値に換算して週給300英国ポンドと言いますから、仰天を遙かに通り越して驚愕?!
今でこそ英国1ポンドは200円ほどですが、40年前には1US$=¥360で、1ポンドは確か800円くらいであった様な。それで換算すると、週給24万円! 月給にすると約100万円!!!
なんという強烈!!!

職人たちは、こんなに貰っても使いようがなったに違いないですな。仕事が多くて給料が良いというのは時に困りものでございます、そういう境遇になってみたいけれども・・・・。多くの職人たちは1日の仕事が終ってお酒くらいしか楽しみがない、“酔っ払って街を赤く染める奴ら”と言われ、厄介者扱いされていたとか。
『月曜に気が付く』・・・・・ブルーマンデーじゃないですが、職人たちはお休みの日曜に飲み過ぎて、ウィークデイが始まったことに気付いて仕事を開始するまでに相当な時間を要した、という意味らしいです、当時の職人たちの姿を端的に表わしている言葉ですね。

このような具合ですから、所謂やっつけ仕事になりがち、研磨の質も落ちてきて当たり前。ここに来てAntwerp開闢以来初めてと言ってよいほど低レベルな出来そこないの数々。なんという情けなさでありましょう、先人達が苦労して、それこそ不景気を乗り越え乗り越えしながら伝えてきた技術なのにね。いつの間にやら時代の好況に載っているだけの存在に成り下がってしまったわけです。

しかし好況の後に不況が来るのは世の常、ついにまた供給過剰状態がやってきたのでありました。市場は飽和、RapaportUkiportのような市場価格指標がなかったこともあり、ダイヤモンド相場は極端に値下がりを繰り返し、短期間で約60%もの価格ダウンという有様となってしまいました。

このようなことを背景にして、19世紀終わりから20世紀にかけてはUnion(労働組合)と、それに対抗すべく生まれた経営者側の組織Diamond Clubが登場します。

共産主義社会主義思想が勃興したことにより、労使関係は一気に現代のような様相を呈してまいります。そして、法律の整備が現実に対応しきれておりませんでしたから、Union側はどんどんと社会主義的な傾向を帯びてゆきます。1887年、Antwerp Diamond Worker’s Associationが設立され、多くの研磨職人たちが参加することになりました。しかし、経営者に対する彼らの要求は、現代の我々から見ると至極当然のことばかり、例えば、労働環境を衛生的に保つ事、職場で使用する燃料等の経営者負担などなど。

ダイヤモンド研磨というのは、他の産業に比べてそうそう大掛かりな機械を使うわけでもなく危険でもなかったですから、経営者たちは容易に労働者達の要求に応えることが出来たに違いないですね。そしてまた組合側も政治的なことに首を突っ込んで訳の解らない要求したりという20世紀なかばからの変な組合ではなかったようで、女性労働者に対する保護や、14歳未満の者を雇ってはならないという幼年労働の禁止といった斬新な方針を打ち出しておるのがこの頃の特徴でありましょう。

アントワープ駅前通り、19世紀末
(アントワープ駅前通り、19世紀末)


しかし労働者の要求を丸呑みするほど経営者側もバカではありませんね、人間というのはどんどん増長して欲深くなるという欠点を持っておりますからね、どんな要求に対してもある程度は抵抗しないといけませんし、それには横の繋がりも必要。
そんなことから経営者たちは、アントワープ中央駅近くのカフェで時おり集まりを持ち、対処の方法を検討し合うことが始まりました。

自然発生的なこの集いは徐々に参加者も増え、カフェでの密談という訳にはゆかなくなりました。ならばと言うので、大邸宅を持つ者が自宅を提供。そしてそのうちに、相談ばかりしているのではなく“商談の場”も兼ねることになり、商い高が増えるに従って個人の家では何かと不都合、名称も‘Antwerp Diamond Club’としてダイヤモンド街のメインストリートであるペリカン通りにビルを持つこととなりました。

このダイヤモンド・クラブというもの、実に画期的。世界各地から売り手と買い手を集結させることとなり、Antwerpは一躍、世界屈指の研磨工場とともに世界一の研磨済み(ルース)ダイヤモンド取引所としての地位を確立したのでありました。
ホンマ何が幸いするか分かりませんね、労働者たちの要求に対抗するはずであった集まりが何時の間にやら世界一の取引所に!

ペリカン通り
(ペリカン通り)


Antwerp Diamond Clubは、各国のダイヤ取り引き所の良き手本となり、この後約100年間アントワープの取り引きを支えてゆくわけですが、具体的にはどのような場所なのか?
売り手も買い手もメンバー、あるいはメンバーの紹介による一日会員、ですから変な奴はいないし安心して売買できるし、色んなタイプの多くの人間が一つのフロアに集まって来ますから、人脈作りや販売先仕入れルート開拓に便利という大きなメリット、ダイヤモンド興隆期には大きな役割を果たしたことでしょうね。
ただし現在ではもう既にその任務をほとんど終えているような感じです。
時々チラリと覗いたりしてますが、ヒマなユダヤ人たちがカードゲームに興じてたりとかね。このエリアで商売している人間にはこの場所で会議やらとか色々あるのでしょうけども、もう商売しているという雰囲気はほとんどございません。
さて、大変革からの色々な流れの中で業界はようやくちょっとした安定期に入ります。そしてそのような中での技術面での改革、フットペダル付きの研磨機械が登場したのでありました。

、フットペダル付きの研磨機械


この機械、ウキ世代には懐かしいですね、そうです、オフクロさんが使っていたミシンを思い起こさせるではありませんか。現代のコンピューター制御されたハイテク・カッティングマシンでやるよりもよほど味があってテリのよいダイヤが研磨されそうな・・・そんな気になりませんか?
あなたのお母さんが持っているいかにも古めかしいカッティングのダイヤ、ひょっとしたらこの機械から生み出されたのかもしれませんね。

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