第8章     戦争の世紀とダイヤモンド

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20世紀は戦争の世紀、
世界史の教科書を再度開いてみるまでもなく、世界各地の悲惨な出来事の数々、皆さんは良くご存知ですね。
平成の平和な日本に生きておりますと、この平時が当たり前と錯覚し、かえって平和のありがたさが希薄になりがち。

中世は戦争によって人と物の交流が活発化して経済が活性化した時代であったと言えるでしょうけども、近代における大量破壊兵器の開発により、戦争はただ無をもたらすだけのものとなりました。曇りなき煌きとダイヤモンド独特の透明感は戦時には全く不釣合いということはハッキリとしておりますね。

そういう意味でアントワープダイヤモンド市場は相当な困難に直面した20世紀でありました。

まず、供給面から言いますと、
1899年に勃発した南アのボーア戦争により、ダイヤ原石の採掘は完全にストップ。原石が入ってこないのではアントワープ市場は全く成り立ちません。失業者の増大で、アントワープとその周辺の自治体はダイヤ関連の事業主に援助の手を差し伸べねばなりませんでした。

ボーア戦争の終結後、ダイヤの流通が回復し始めると、De Beersはこのような不況に対応するため、ダイヤモンドの流通を完全にコントロールしなければいけないと考えるようになりました。そして、一挙に原石の販売量を3分の2に減らすと同時に価格を30%も値上げしたのでした。

ところが、この極端な対処法はほとんど成功しませんでした。回復しかけた業界の景気はまたまた落ち込み、1907〜1908年の冬、Amsterdamの失業者は前年の20倍以上となり、アントワープでも同様の情況となったのです。

1908年、ドイツ領の南西アフリカで新しいダイヤ鉱床が発見され、そこから大量のメレダイヤがもたらされることとなりました。そのお蔭で、アントワープとその周辺エリアでは、それらの研磨のために久しぶりに活況となりました。当時のアントワープとその周辺では合わせて66の研磨工場があり、それら事業所は合計で1,184もの研磨機械と1,500名の従業員を抱えていたとのことです。

ペンダント


上の画像のようなペンダントのために大量のメレダイヤが研磨されていたということですが、メレダイヤの研磨が発達してこのようなジュエリーが作られるようになったことは画期的、そして、100年前とは思えぬ斬新さで、これはとてもアンティークとは思えませんね。

メレダイヤの恩恵で、20世紀初頭より第1次大戦までの間にアントワープのダイヤモンド産業はAmsterdamを凌駕するようになりました。非常に名誉なことであるけれども、これはAmsterdam市当局の失業対策のミスによるところが大きかったのでした。それでも、アントワープのダイヤモンド業者は団体を持って活動する事の重要性を知っていたというのが勝因かもしれません。彼らは、1904年にAssociation of Antwerp Diamond Manufactures(アントワープダイヤ研磨業者組合)を設立、これは短命に終ったものの直ぐに、公の取引所として発足したDiamond Clubをより発展させたDiamond Trade Exchangeを立ち上げました。

Diamond Club

上の写真は、その記念すべき第1回のミーティングが行われた場所と参加者達です。

Diamond Clubは現在でも残っておりますが、機能的には友好の場であり、実際の取り引き等はDiamond Trade Exchangeへと引き継がれてゆきます。このような公的なダイヤモンド取引所開設の動きは瞬く間にヨーロッパ中に広がり、1年後には13もの取引所が各地に誕生、相互に密接な関係を持つようになりました。

そして、第一次大戦、
この第一次世界大戦のきっかけになったのはサラエボ事件であることは疑いの余地がないですが、欧州各国が入り乱れての大規模戦闘行為となった真の要因についてははっきりと特定できないそうですね。これより約100年前のナポレオン戦争まで遡ってその原因を追究している歴史家が多いとのことで、複雑に色々な要因が絡み合っております。例えば、ナショナリズムと領土問題、複雑な同盟関係、優柔不断な外交と強気一辺倒の外交の繰り返し、対外折衝における本国との通信不備や意図の誤解、軍拡競争、軍事計画の杜撰、など等・・。

開戦当時において人々は戦いが短期間で終わると信じていた、ということがどのような文献にも書かれており、結局のところ、結果としての世界大戦であり、また、2度の世界大戦を歴史で知る後世の我々はその悲惨さを常に聞かされて育ってきましたから、簡単に武力行使に訴えるという当時のやり方には違和感を思えざるをえません。しかし、欧州各国の歴史は平時よりも戦時の方が多いわけで、各国共通のものの考え方として、戦争は外交の手段であり政治の延長であったということがハッキリとしております。負ければ賠償金を払い領土を失う、責任を取って為政者が交代する、それだけのことだったのが第一次大戦以前までの戦争だったわけですね。

さて、開戦間もなくドイツ軍はベルギーに侵攻、ベルギーは簡単にドイツ支配下となってしまい、ロンドンのDe Beerからの原石供給がストップ、その地位をまたAmsterdamに奪われることとなります。この当時から既にアメリカは一番魅力的な市場であり、Amsterdamのダイヤ業者は、開戦当初において戦争に無関係を決め込んでいたアメリカへとどんどん売り込みを増やし、大いに栄えることになりました。
アントワープのダイヤ業者は存続はしていましたが、ほとんどの仕事は密輸に関連するものばかり、多くの者がAmsterdamへと逃避しました。

英国政府は、ダイヤモンド産業育成のため1917年にベルギーから500名以上のダイヤモンド研磨職人を移住させました。

1918年大戦終結、
そして大きな変化が訪れます。
まず春を謳歌し過ぎたAmsterdam、アメリカ向けの輸出が好調すぎて笑いが止まらず、設備投資と人員増強を繰り返した結果のバブル崩壊、景気調整期における舵取りを間違えたのですね、なんと9,000名のダイヤモンド労働者組合員のうち7,000名が職を失ってしまったのです。

一方のアントワープ、原石の供給も復活し、大戦の戦勝国である英仏との関係も良好でコンスタントな注文を受けるようになり、かつての光を取り戻してゆきます。この当時の特徴としては、アントワープ郊外での小規模工場の発達、雨後の竹の子のように(資料ではマッシュルームのように、という記述があります)小さな工場がどんどん増殖したのでした。

ある人たちにとって、このような小規模工場は目の上のタン瘤であったのですが、このような底辺の力がアントワープの力、奥ゆきの深いこの力強さがその後のアントワープの栄光へと繋がってゆくのでした。

1923年にはアントワープのメインストリートで大きなジュエリー展示会が開催され、多くの事業主や労働者、その家族たちが着飾ってその歴史的なイベントに参加しました。

これは一つのお祭りであり、約70のグループ2,100人が15の飾り付けられたフロートとともにパレードに参加、加えて、600頭もの馬、ラバ、ラクダやゾウまでもが行進したと言いますから、全くとんでもないバカ騒ぎだったのでしょう。

ジュエリー展示会ポスター
(イベントのポスター)


1920年代はアメリカの購買力が一段と跳ね上がり、まさに獅子が大口を開けて獲物を飲み込むが如くの需要だったとのこと。ロシア革命、ソ連の登場、ロシア皇帝の財宝の流出もあり、一時的に価格低迷期もありましたが、アントワープのダイヤモンド業者にとっては良い時代であったことは間違いないでしょうね。

そして大恐慌から第二次大戦、
アントワープにとってまたもや暗黒の時代です。

かつて、アメリカがクシャミをすれば欧州が風邪を引き、アジアが肺炎になる、などと言われたものですが、大恐慌とはアメリカが肺炎で入院というような事態ですからね、アジアのみならず欧州も瀕死の様相。
ダイヤモンド事業主たちは多くの従業員を解雇しましたがそれでも不十分、残った者たちにも週3日の労働というような条件でしか雇用できなくなってしまったのでした。

しかしそんな事態はまだ序の口、
ナチス・ドイツの台頭でベルギー全土は一瞬にしてドイツ領となってしまいました。小国の悲哀ですね。ベルギーの場合、常に周りの大国の影響下にあって、戦時となればどこかの支配下に置かれてしまうという歴史の繰り返しです。20世紀は専らドイツですが、それ以前はオランダ、フランス、そして英国の影響も強くて、これら4強の狭間で生きてゆかねばならなかった息苦しさというのは到底我々には理解出来ませんね。ベルギー国民の優しさと感情を殺したような穏やかさはこのあたりの歴史から来ているというのは疑いようのないところです。

そのような辛い歴史の繰り返しですが、ますます悪化して行く情況は避けられるはずもなく、1930年には25,000名いたダイヤ関連労働者が数年後にはその半分となり、しかも彼らは売れるあてのないダイヤを研磨し続けたのでした。De Beerにしても、原石の販売は続けておりましたが、それが仮儒であり、決して消費者の元に届くことがないであろうことを悟っていたのでした。

1945年大戦終結、
第二次大戦により欧州大陸は無に帰し、戦前の数年間に多忙を極めたこともウソのように戦火の傷跡は色濃く、ダイヤモンドの話などお伽話の世界のようでありました。
けれども、ダイヤモンドはなお高い価値を持ち続け、戦乱を逃れて各所に保管されていたのでした。

ユダヤ人たちは、開戦とともに侵略者が入り込めないような場所にダイヤモンドを持ち込みました。それらはアメリカ、ポルトガル、キューバ、そして後にイスラエルとなるパレスチナの地にまで運び込まれたのですが、大多数は英国に逃れてDe Beers管理下になったのでした。
1941年のドイツの新聞によると、アントワープにあったダイヤモンドの90%はその時点でどこかに消え、ドイツはほとんど利用できなかったとのことです。

それらの商品が大戦後のアントワープのダイヤモンド産業復興に大きく役立ったのでした。大戦終結後、速やかにアントワープへ戻ったユダヤ人たちとダイヤモンド。アントワープは順調に復興してゆきます。また、大戦中にドイツが完全に大陸を封鎖したことで、逃げ遅れた者たちによって大陸側にもダイヤモンド事務所を存続させることが出来たという怪我の功名にも恵まれ、これが新たな出直しに一役買ったと言われております。終戦翌年の5月には既に2,000人のダイヤモンド商人と13,750人のダイヤ研磨労働者、そして200の事業所と50の大手工場が確認されております。

大戦による逃避で、世界各地にダイヤモンド市場が開かれましたが − ブラジル、南ア、キューバ、プエルトリコなど等 − それらはいずれも短命に終わり、やはりアントワープの存在感が急速に大きくなってゆくのでした。

この当時は、当然ながらアメリカの需要が景気を引っ張ったことに言を待たないのですが、研磨されたダイヤモンドの3分の2がアメリカに渡ったというのはもう強烈としか言いようがないですね。

そのようなアメリカの支えもあって、早くも1948年にはアントワープで大掛かりなジュエリー展示会が開催されました。

1960年代に入ると、経済情勢もますます安定、1964年の輸出量は15年前の5倍にも達したということです。これには1958年にブラッセルで開催された万博によるところが大きいようです。ダイヤモンド産業は、この万国博に参加し、効果的なセールスプロモーションに成功、アメリカ向けのみならずアジア向けにも売り上げを作れるようになったとのことですね。

さて、このようにアントワープはダイヤモンド産業で確固たる地位を築くことに成功したわけですけども、世界各地にライバルが続々と登場してきました。

イスラエルはその中でも最大級の脅威、なにせユダヤ人国家・ユダヤ人の心の故郷、パレスチナの地ですから世界中のユダヤ人が支援しますし、建国当初において確たる産業もなく、国を挙げてのダイヤモンド産業育成、政府首脳の意気込みも大変なもの。まさにダイヤモンドは国家的プロジェクトだったですからね。

そしてインド、工賃の安さでは他国を圧倒、メレダイヤなどの低価格品はどんどん市場をインドに取られてゆきました。

またソ連も、ウラル山脈から出る高品質のダイヤモンドを武器に国際市場に参入してきまして、それらの国々とベルギーの戦いは激しさを増すばかり。

ダイヤモンド研磨専門学校
(ダイヤモンド研磨専門学校)


アントワープはその地位を守るために数々のことが行われてきました。
まず、技術革新と機械化、省力化ですね。そして伝統の技術の継承。

“Cut & Polish in Belgium”というブランドネームを残すため、若年層を対象にダイヤモンド・カッティング専門学校が開校されたのは実に有意義なことでありますね。

アントワープは他の市場と比べて多くのアドヴァンテージを持ってきました。研磨工場事業主と労働者は優れて組織化され、どのようなタイプの原石にでも対応できるという人材に恵まれました。他のエリアでは、技術は専門分野に特化されておりますから、苦手な種類に関してはアントワープへ送って、ということになりがち。当然、バイヤーにしてもアントワープ市場に一番の信頼を置くことになりました。

そして現代、
他の研磨市場とアントワープは互いに補完しあっているのではなくて、アントワープが扇の要として他の市場と結びついていると言っても過言ではありません。

高い技術に裏打ちされたアントワープ市場、それはもちろん一夜にして成し遂げられたことではありません。苦難の道のりがあったからこその栄光ですね。

伝統的な技術とアイデアは、主に不況時において商いが低調な時に、事業主と職人の知恵によって開発され革新され、蓄えられてきたのです。

ベルギー王室の庇護と関心の高さも見逃せません。
下の写真をご覧ください。

1971年に昭和天皇ご夫妻が渡欧された折の写真です。
両陛下はアントワープのダイヤ研磨工場に立ち寄られました。
ベルギー王室は、このように海外からの賓客が来る度、自らが案内役となって研磨工場へお連れするとか。

しかしまあ、皇室と言えども当時は日本でたくさんのダイヤモンドを見ることは出来なかったでしょうから、良子皇后の突き刺さるような視線ね、何とも言えまへんな。昭和天皇は『ひとつ買うたらなアカンかな』とかって思ってたんでしょうかね、心なしか渋い表情にも見えます。

昭和天皇


21世紀初頭のアントワープはまた再び色々な困難に直面しているという事実はございますが、そこに息づくDNAは何か不滅の生命力をもっているように思えます。

それは彼ら自身が常に言ってきた“No progress is regress.”(進歩がないのは退歩に等しい)という言葉に表されておりますね。

Antwerp will always keep its leading position in the world diamond industry.

おおきに
UKI

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