第6章     ヨーロッパの覇権争いとダイヤモンド

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大航海時代の始まりとともに、ダイヤモンドの流通は活発になっていったわけですけども、綺麗なものの陰には争いや謀略、暴力、武力の数々、残念ながらこのようなことは避けられるものではありませんね。

アントワープのダイヤモンド事業はそのような権力、覇権の争いに巻き込まれてゆくのでありますが、アントワープ内部においても色々な問題が起こり、ダイヤモンド事業の衰退が始まるのでした。

まず、アントワープややその勢力圏内にいてはギルドによる規制が厳しくて、なかなか仕事が回ってこない労働者、技術的にはそこそこ使えるもののギルドメンバーになれるほどの技量を持たない者たちが次々にAntwerpから新天地を目指し、多くはAmsterdamへと向かい、そこで、スペインやポルトガルの圧政から逃れてきたユダヤ人と結託することになります。

おおっ、やっとユダヤ人が登場。
遥か昔より、ユダヤ人たちは金融の頭脳を持ち、宝石類の流通に深く関わり合いを持っておりましたから、AntwerpからAmsterdamへ移住したダイヤ関連の人たちは活発なビジネスを展開するようになり、Antwerpの市当局とダイヤ研磨業者は大きな屈辱を味わうことになりました。

アムステルダムのダイヤ研磨労働者の賃金は、Antwerpよりもかなり安いものでしたので、それを利用したアムステルダムのユダヤ人コミュニティー自身も大きく成長して行ったのです。

このようなことから、また、オランダのアジアへの大掛かりな進出により、AntwerpとAmsterdamのダイヤビジネスはこれより別の道を歩むことになります。

17世紀、オランダの海軍と商船隊はポルトガルとの戦いに勝ち、ヨーロッパの覇権を奪取。多くの船乗りが『大洋航行経験者』の称号を得て、アジア貿易とダイヤ原石を含む重要な商品の物流はますますオランダ人の手に握られることになりました。

約80年の間、オランダ人はダイヤ原石の分配権を持ち、高品質のものはアムステルダムで研磨されることになったので、Antwerpの没落はもはやどうしようもない局面へと向かうことになったのでした。

この時期には、30年戦争(1618〜1648)が起こり、ドイツ全土に凄まじい荒廃をもたらし、中部ヨーロッパの中心であったフランクフルトのダイヤモンド市場もほとんど停止状態へと追い込まれてしまいます。ポルトガルもまた、オランダに敗れたあと国力の回復もままならず、オランダの栄光の時代が到来したのでした。

ダイヤモンドの取り引き自体は、たとえそれらがオランダの大商人たちにガッチリと握られていたにしろ、17世紀全般を通して大きく進展したと言えます。リスクということを考えた場合、この頃のビジネスが一番ハイリスクであったのかもしれないし、そのリスクに見合うハイリターンだったのかもしれませんね。興味深いストーリーがいくつか残っております。

1631年、同時代をを代表するような商人の1人であるFerdinand de Grooteはリスボンから7.76crtsのダイヤを顧客に発送したのでありますが、イタリアで行方が分からなくなり、ついに裁判沙汰となったというような事件が起こっております。
これがどうして記録に残っているのかと言うと、かの有名な画家、ルーベンスが証人として法廷に立ったのですね。ルーベンスはこの当時を代表するような芸術家でありましたから、何人かの大商人たちを友人に持っていたのでした。

下の画像をご覧下さい。
ルーベンスの2度目の結婚相手、ヘレナさんです。彼自身が画いた肖像画。
ムッチリとした谷間が悩ましいですが、ウッキーはもちろんそんなところには目を向けてはおりません、その白い肌を取り巻くような豪華なネックレス、恐らく金とダイヤ、その他もろもろなんでしょうけども、たまらぬ迫力やねえ、重みで肩こりがひどくなりそうです。

ヘレナ


Fouchoudという商人も大きな盗難騒ぎに巻き込まれた1人です。
このStoryはホンマ小説になりそうでね、ウッキーが書きたいくらいです。
彼は、最も重要な顧客であるオーストリア皇帝を大邸宅に招待して宝石&ジュエリー展示会を催していたのですが、もちろん皇帝陛下のために開催した展示会、IJTとは違いますね、一般人は完全にシャットアウトです、その会場において、皇帝が滞在しておられるまさにその時、展示ルームから商品をゴソリと奪われてしまったのです。
な、なんと、これはルパンの仕業か?!

皇帝に見合うような宝石類です、半端なものやおまへんな、総額ナンボやったのか全く想像もつきません。
当然ながら警備も厳重極まるものであったでしょうし、その強固なセキュリティーをかいくぐっての行為、凄いとしか言いようがない!

ここで少し話が逸れますが、王族が関連する宝石スキャンダルということで思い出されるのが、
“マリーアントワネットの首飾り”でございますね。
実話でございましてね、2001年に映画化されております。
― 『かつて王位にもついていたフランスの名門ヴァロア家の娘、ジャンヌは父親を政敵によって葬り去られ、9歳にして全てをなくして孤児となる、おお可哀相に、なんちゅうこっちゃ。15年の月日が経ちベッピンさんになったジャンヌであったが、彼女の野望は失われたヴァロア家の領地を取り戻すことであった。目的のためには手段を選ばず、ジャンヌは伯爵と愛のない結婚をし、宮廷内に入ってゼニをくすねる機会を虎視眈々と狙うようになる。
当時のヴェルサイユ宮殿では、ルイ16世が王妃・マリーアントワネットとともに近い将来に断頭台の露と消え行くのも知らず、人民を犠牲にした豪奢な生活を送っていた。ホンマしゃあない奴等やねえ。
枢機卿・露餡?ロシアのアンコか? ちゃうねえ、ルイ・ド・ロアンですな、
彼はオーストリア大使時代に王妃の不興を買い、不遇な時を送っていたが、なんとかもう一度王妃に取り入ることにより出世の道を登ろうという野心を失っていなかった。
ちょっと待って。枢機卿と言うとローマカトリック教会のお偉いさんやろな、こんな俗世の泥沼に首突っ込んでええわけ、もうたまらんな、というところですが・・・。
このロアンの思いを知ったジャンヌは、ある計画を立てる。
ジャンヌは王妃そっくりの娼婦をアントワネットに仕立て、ロアンとヴェルサイユの“ヴィーナスの茂み”で密会させる。すっかり騙されロアンは、王妃の使いになりすましたジャンヌの愛人であるレトーに160万ルーブルもの首飾りを渡したのであった。
2ヵ月後、ジャンヌはこの首飾りに使用されていたダイヤの一部を売却し、ヴァロア家の失地を取り戻し、悲願を叶えたのであったが・・・・・』
ここでまだストーリーは半分だ、デメタシデメタシとは行かない。
後半の部分はまたDVD等でご覧になってください、知らない方は。

このスキャンダルは、その真偽とは別に王室に対する民衆の怒りを爆発させる一因となり、フランス革命の導火線となった、ちゅうことですからねえ、
ホンマ女の意地と宝石くらい怖いもんはおまへんな。

さて、国民の窮状をよそに贅沢三昧し放題だったルイ16世と王妃がギロチンにかけられたことで、“首飾り”の方は使われようもあったわけですけども、
Fouchoud氏の豪華なジュエリー群は一体どうなったのでしょうね?

事件の後、ルパンならぬ大盗賊の面が割れ、似顔絵がヨーロッパの主要都市に貼りだされることになり、捜査は進展します。
映画化されたストーリーもおもろいけども、ウッキーは何よりも捕物が大好きでね。江戸時代なら、さしずめ将軍様に献上されるべき美術工芸品が盗まれたような騒ぎでございますな。町奉行、寺社奉行、火盗改め、与力、同心、岡引き、八州廻りまで総動員での探索。ついに遠山の金さんがモンモン見せて下手人を捕縛したか、いや、銭形の親分だ、なんの、鬼平もいるぞ、 なんのこっちゃ抹茶に紅茶、もうええわ。
F氏一族の若き同心、ではなかった若きホープ・Melchiorはついにワルシャワで盗難品62点のうちの49点を取り戻すことに成功したのでありました。

本題に戻らないといけませんな、

当時、既に大商人たちは、欧州大陸の主要都市のほとんどに支店を構えており、ダイヤの扱い高はどんどんと増えつづけて行ったのでした。裕福な者がダイヤを所有し、身に付けるということに並々ならぬ情熱を傾けていたということが推測されますね。
彼ら彼女たちは、ダイヤを通常の装着 ― 指輪やネックレス、ペンダント、ブローチだけでなく、ベルトやドレスにも縫い付けるようなこともやっておりました。

う〜m、バブルの頃を思い出しますなあ、
当時はルースの輸入卸に徹しておりましたから、ジュエリーというものにほとんどタッチしなかったウッキーですが、時おり卸し先の人に“悪趣味成金”の話を聞いては唖然としておりました。ベルトのバックル等にダイヤを付けるのはまだ上品な方でね、ゴルフのパターとか、社員章とか(これはちょっとアチラの筋系のようですが)、果ては入れ歯にまで、おー最悪。

かのルイ14世は、ダイヤで丁寧に仕上げられたクラスプを靴に取り付けていたそうですな。ヨーロッパ王家のプリンスたちの儀式における武具ね、これも絢爛豪華、小林幸子も真っ青! このプリンス達の甲冑は“ダイヤモンド鉱山”と称されたそうですからね、どれほどのダイヤを鎧や兜に取り付けていたのやら・・・もう想像を絶するばかりです。
こればかりではございません、教会のプレートまでダイヤでキンピカだったそうでね、信仰の象徴どころではございませんな、生臭坊主ならぬ生臭神父の象徴です、許されへんね。全く見たくもない醜悪さ。

クラスプ
(キンピカ武具の飾り)


ところで、
17世紀も終わり頃になってきますと、アジアでのオランダ製力が衰えを見せ始め、同時に英国の力が目立つようになってきました。
1654年以降、英国艦隊は世界の海を支配するため、無慈悲な戦いを続けてきたのですが、英国は徐々にインドに対する影響力を強め、ついにはオランダを上回るようになり、インドから英国へのダイヤ供給量が格段に飛躍するようになったのです。そしてロンドンは、ダイヤモンド流通センターの一つとしての地位を得ようとしてゆきました。

この頃のダイヤモンド研磨の技術的な進歩として特筆しないといけないことは、やはりBrilliantの登場でしょう。
Brilliantとはいかなるものを言うのか?
ラウンド・ブリリアントは誰でもご存知でしょうが、ブリリアントはラウンドだけを指すものではございません。片側にテーブル面をとり、その周りにファセットを作り、対称形にすることにより光の反射をより良くしたものをブリリアントと呼びますが、1672年以前にはこれがカットされたという記述はありません。このブリリアントが公文書に初めて登場するのは1715年です。見習い職人は事業主からブリリアントの研磨を習わないといけない、との記述が出てまいります。
当時のブリリアントは下図の左側のようなファセットの数が16のシンプルなものでしたが、18世紀も半ばを過ぎるようになますと、下の図のような32のファセットを持ったものが出てきました。研磨技術の着実な進歩を物語っておりますね。

Brilliant

18世紀になりますと、ブラジルでダイヤ鉱脈が発見されます。
これはダイヤ業界にとってまさに僥倖。何故ならば、インドのダイヤ鉱脈が乱開発によってほとんど枯渇寸前まで行ってしまっていたからなのです。
1729年、ポルトガル王室は、ブラジルのダイヤ鉱山を王室所有物と宣言、この独占を目論見ます。しかし、オランダは強引に横から奪っていくという何とも表現のしようのない“ヤクザ”同士の抗争に発展。1735年から1740年にかけて両国による乱獲競争が続き、この結果はダイヤ価格の下落をもたらしただけに終わりました、ホンマしゃあない下郎どもじゃ・・・。

18世紀後半になってもAntwerpには大した活況はなかったのですが、ちょっとしたイベントが飛び込んでまいりました。
フランス王ルイ16世が、彼の所有物である古いタイプのローズカットのダイヤモンドをBrilliantにリカット(再研磨)するようAntwerpに依頼したのでありました。
フランス王家の執事とAntwerp行政官が、この研磨について話し合いを行い、市当局はカルトシオ修道院に研磨機械を設置、宝石商Martinus Cuylitsの監督の下、彼の研磨職人が仕事に従事することとなりました。
この研磨には、23組の研磨機械をフル稼働させ9ヶ月を要したというのでありますから、一体どれほどの所有量だったのでしょうね、ホンマ呆れる! 革命が起こるはずやね。

このようにAntwerpは、良質の職人集団を持ちながら、英蘭に品質の高いものや大きな原石を独占されていたため、18世紀後半には小粒ダイヤの研磨に特化していたのですが、このことがようやく陽の目を見ることになります。
品質の劣る小粒をより大きく美しく見せるため、細部まで丁寧に仕上げる技術が発達、そのようなものを扱うヨーロッパの業者の好評を博し、再び皆の目がAntwerpへと向けられることになりました。

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