第3章     ダイヤモンド事業の興隆

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16世紀に入ると、アントワープは完全に商都としての地位を確立、その金融市場はヨーロッパで最も重要なひとつとなりました。
この当時、金融と宝飾は非常に密接な関係を持っておりましたから、ダイヤモンドの研磨とジュエリー加工は金融取引に匹敵する地位を占めていたということです。
ウッキーもこの時代に生きておれば良かったとシミジミ思いますねえ。今じゃダイヤモンドの輸入卸は実にしがない商売、大して儲かりはしないし、社会的地位などないも同然、ましてや金融関係に携っている人たちに匹敵するなんてとんでもない話、あ〜・・・

驚くべきことに、この仕事、ダイヤ関連業者の社会的地位の高さというのは15世紀終わり頃からのことなんですなあ、次のような記述が残っております。
“1483年、ダイヤ研磨職人のウォルター・パウウェルズは、王室の教会慈善団体の新会員として迎えられた”
“1490年、ダイヤ研磨職人のペーター・ヴァン・デルホードンクは、行政長官から貴族の娘であるコーネリア・アドリアンズとの結婚を打診された”
“1492年、ダイヤ研磨職人、ヘンドリック・ヴァン・アーケンは、資産の一部を慈善団体に寄付した”etc

順調に推移する原石輸入量とダイヤ関連雇用者数、Antwerpのダイヤモンド業界は、瞬く間に既存異業種の手工業者やギルドを凌駕することになりました。その繁栄ぶりは、ルドヴィコ・グイキャラディーの有名な『南部10州点描』の中に次のように記されております。
“アントワープのダイヤモンド職人たちは、他所では真似できない素晴らしい作品を世に送り出している。工房は大規模で、他の地域では考えられないくらい多数の人々が従事している。この都市における宝飾品の取り引き額は、他の地方の商い高を全部合計しても敵わないだろう。高額品の取り引きされる様は目を見張るばかりだ・・・”

ところで、アントワープと組むホットラインの片側、リスボンのことも記述しないといけませんね。
リスボン(ポルトガル)がダイヤ関連のみならず、歴史上で最も光り輝いたのは16〜17世紀のことであります。
他国に先駆けた大航海時代、先駆者としてのメリットを十二分に生かして、ヨーロッパの歴史に例を見ないほどの繁栄と興隆であったとのこと。
当時を偲ぶものを見てもその繁栄ぶりはあまり伝わってきませんが、何となく思うに、ポルトガル人というのは、宵越しの金は持たないという江戸っ子的なキャラだったのかもしれまへんなあ。

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テージョ川。
下流の先は既に大西洋です、こういう風景を毎日見ておれば否応なしに海の向こうへと気持ちは掻き立てられますね。
テージョ川

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ベレンの塔。
大航海時代の要塞だったとか、司馬遼太郎はこれを『テージョの貴婦人』と呼んだそうです。

ベレンの塔

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発見のモニュメント。
海外で活躍したポルトガルの著名人の誠にスケールの大きい方々、コロンブス、ヴァスコダガマ、F・ザビエルなど等がテージョの遥か向こう海のかなたを見つめております。ここには、ポルトガルが各国を発見した年号が記述されているとか。日本に関しては1541年という記載があるそうです、そうそう、そうなんですねえ、かの有名な種子島、日本の戦国時代、信長の領土拡張に欠かせなかった銃がポルトガルから日本に伝わったのでしたね。
発見のモニュメント

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そして、パン、カステラ、タバコ、カッパ(合羽)など日本の日常生活で使われる様々なポルトガル語。400年前は今よりもはるかに日本とポルトガルは密接な関係だったと言えるでしょう。

ところでダイヤモンドの輸送には危険が付きものですね。
現代の我々日本人バイヤーが買い付けた商品はどのような手順でもってAntwerpから運ばれてくるかと申しますと、それは多くの人の手を煩わせる大変な作業なんです。
まず、アントワープのダイヤモンド輸出業者は輸入先別ごとにパックされた商品をダイヤモンド街の公的チェック機関に持ち込みます。そこで無事に審査(ダイヤ以外のモノが混入されていないかどうか、ダイヤが本物かどうか、異常な値段が付いてないかどうかetc.)をパスしますと、それら多数のパッケージは集められ厳重な警備の下に輸送車に積み込まれ空港へ運ばれます。この積み込み作業の真っ最中に輸送車の横を通り過ぎることは、我々全く悪意のない丸腰の者でさえビクビクもの。なんせ、軍隊顔負けの重装備警備員のM16やウージーが安全装置を外された状態で通行人である我々の方に向けられているのですから。彼らが何かに驚いて指動かしたら・・・結果は言うまでもございませんね。『ハイハイ皆さん、お勤めご苦労』なんて言って警備員に愛想でも手を上げたなら途端にM16が火を噴いてウッキーの掌に穴が開く?!
いやいやマジでそんな緊張感があります。

ダイヤ輸送車はそのあと前後を警備車両にガードされて空港へと向かうわけですが、この厳重警備は当然でございますねえ、毎日毎日世界各地へと出荷されてゆくダイヤモンド、一つの車両には最低でも数十億円が積み込まれているものと推定されますからね。

空港からはどのような経路を辿るのか?
当然ながら秘中秘、明らかではないですが、先輩諸氏のおっしゃっていることから判断しますと、ダイヤの入った小型パックは各フライトに1〜3個くらいなのでしょうね、パイロットが自分の鞄の中に入れて行き先まで運んでいる?
多分これであっていると思います。パイロットの鞄は何となくそれっぽいですから。

長々と現代の輸送システムについて書きましたが、数世紀前はそんなものあるはずもなく、しからば?
何よりもまず護送船団が必要不可欠。
しかしねえ、ここでまたゲスの勘ぐり、ウッキーはついつい“送り狼”ちゅうのはなかったのかと思ってしまいます、絶対にあったやろうね。

『インドからダイヤの原石と珍品の数々を積み込んだ船が出る。護衛船団を率いるMac Uki提督は、長い冬に耐えねばならぬ北西ヨーロッパの気候にウンザリしていた。こつこつゼニを貯めて南仏コートダジュールにベッピン妻と移り住むという長年の夢を持っていたが、安月給で雇われの身、近頃の物価高で逆に貯金は減るばかり。そこに転がり込んできた“悪魔の囁き”送り狼の話を断れるはずはなかった。船団がリスボンに到着する3日前、Uki提督は速やかに行動を起こし、ダイヤ原石の強奪に成功! 
おお素晴らしい。
これで妻との約束も果たせる、意気揚揚と南仏へ向かうUki提督であった・・・、
が、しかし、悪はやはり滅ぶ、ドケチUki提督が分け前をケチったばかりに部下が反乱。折からの嵐にも遭遇。哀れUki提督は地中海の藻屑と消えたのでありました。』

メチャありそうな話やね、絶対にこういうのあったと思う!
実際、『皆が非常な心配をしながら、祈るようにダイヤモンドの到着を待った』という記述が当時の資料の至るところに見られるそうです。

ボンベイからリスボンに着いた荷は、また厳しくチェックされた後にアントワープへと向かうのですが、リスボン―アントワープ間の航路は通常6〜7週間を要したそうです。これらの多くは定期便でありまして、途中にドーバー、カレー、ダンケルクなど数箇所の港に立ち寄ったとのこと。
何でや?
金額の大きなものですから、船のメンテをこまめにやる必要があったということはもちろんなのでしょうけど、それ以上に、受け取り側のアントワープ商人たちが、急便の先触れにより商品の位置を確認しておきたかったということが大きいということですね。


ダイヤの原石と珍品の数々を積み込んだ船


遥か遠い昔、インドでのみ研磨されていたダイヤモンド。
それがヨーロッパの技術をもってして急激な発展を遂げ、そしてインド産原石がヨーロッパで研磨された後、インド王族の手に戻るということも普通に行われるようになったとか。

しかし、アントワープが研磨において主導的な役割を担うまでは、ヨーロッパの研磨技術もダイヤ原石のオリジナルの姿を大きく変えるようなものではありませんでした。15世紀のフランドル絵画には非常に美しいシンメトリーを持った正8面体ダイヤモンドの詳細な描写がありますが、これは所謂クリスタルの原石をPolishしたものに他なりませんね。現代でポピュラーな存在のエメラルドカットやクッションカットのように、テーブル面をしっかり広く取って研磨して、その裏にパビリオンを作ったというダイヤモンドが恒常的に登場するようになるのは16世紀の前半になってからです。その後すぐに、パビリオンに多数のファセットを研磨したりするものも登場しますが、いずれもアントワープ職人の手によります。いやはやホント驚くべき技術革新ですね。16〜17世紀におけるcutting技術・芸術の発展は、ほとんどアントワープで成し遂げられたものと言っても過言ではありません。

同時期のアントワープでは、カッティング技術の進歩とともに学術的な面からもダイヤを考察していたようで、17世紀、Tavenierは商人でありながら、ダイヤモンドのインクルージョンを研究、クリベージに関して詳細な文章を残しております。いつの時代にもオモロイ人間がいるものですな。
この時期、アントワープの先駆的技術に関しての記述は枚挙に暇がないほどなのですが、その中でも興味深いものは仏王フランシス1世についてのもの。彼は当然ながらパリにお抱えのダイヤ研磨職人や宝石加工職人を置いていたのですが、フランドル商人からアントワープで研磨加工されたダイヤジュエリーを一目見て魅了されてしまったのですね、それ以降は何かと理由をつけてアントワープものを手に入れようと努めたとか。
技術的芸術的に圧倒的な差があったということでしょうね。

他の地域では、ダイヤモンド加工職人は“Polisher”と呼ばれていたのですが、アントワープでは“Diamond Cutter”と呼ばれておりました。
つまり極端な話、他の都市のPolisherは、形の良い原石の表面が光り輝くように磨いていただけなのですが、AntwerpのCutterたちは優れた技術と自由な発想により、原石を色んな美しい形に切って研磨仕上げしていたということなのです。

16世紀のアントワープは文句なしにダイヤ産業の中心地であり、最先端の技術が生まれる中心都市であったということです。

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