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ギルドと言いますのは、ヨーロッパ中世の商人・手工業者の協同組合ですね、中学や高校の歴史の時間で学んだ通りでございます。何故にこのようなものが出来るようになったのかという歴史的な背景はいろいろありましょうが、一つは職人気質、匠の技を大事にして伝承してゆきたいという気持ちですね。後々になりますと当然ながらそのようなものは技術の停滞の大きな要因となるものですが、ギルド発足当初は、粗悪品を除外し、高度な職人芸・職人技に対して妥当な工賃が支払われるべきという当たり前の行動であったことでしょうね。 ダイヤモンド業界は少なからず特殊、大都市の喧騒の中でさえ別世界を形成しております。これは時代の変化に関係なく、昔も今も同じ。巷の人々が目にする“業界人”というのは街の宝石店の主人や従業員でしかございませんが、その数十倍いや数百倍の人々がダイヤモンドに関わっているという事実、そしてそのことを知っている一般の人がどれだけいるのかと考えると、‘その数百倍の人のひとり’であるウッキーなどは時に微笑みを禁じえません。 弊社事務所のある南船場3−1−6はちょうど宝飾関連会社が集まっているエリアのど真ん中でしてね、通りに出てすれ違うのはほとんど業界人ばかり、100mゆかないうちに何度挨拶を交わすことかというような場所であります。東京の御徒町界隈でもそれは同じことでありましょう。21世紀の現代でも場所によってはこんな有様ですからね、16世紀のダイヤモンド関連の労働者は都市の一般的な社会生活にあまり参加してなかったということは十分頷けます。 そんなわけで、ダイヤモンドの業界が組織化されるまでは‘業界人’のことを古文書や公文書の中から拾うのは骨のおれる仕事とか。 何も問題が起きなければそれはそれで素晴らしいこと、自由主義資本主義経済が完璧に実践されている姿でございますからね、しかし、そんなわけにはゆかないのがどの世界でも同じこと、16世紀後半になり、研磨済み(ルース)ダイヤモンドの需要が飛躍的に拡大し研磨職人の仕事が追いつかないほどになりますと、種々雑多いろいろと問題が発生して参ります。 1540年までに既に多くの外国人がアントワープに入りこんで職を得ておりました。これは、アントワープが他の都市と比べて容易に働き場所を見つけられ高賃金であったという意味ですね。それというのはもちろんダイヤモンド産業があるからで、移住して来た外国人はダイヤ業界で働けるように直ぐ市民登録したとか。中世のアントワープは現代日本のような様相であったわけですな。 “ニセ・ダイヤ職人”? ここに初めてダイヤモンド研磨職人たちの組織化の動きが出始めます。 1.ダイヤ研磨職人になるには、長い見習い期間と高い授業料を支払わねば な、なるほど、3はともかくとして、1と2はまるで日本の法曹業界のようでありますねえ、法学部に入って司法試験にやっとこせ合格して弁護士になって見習いして独立・・・、ゼニをタンマリ稼げるようになるには時間が掛かるけども一度なってしまえば・・というやつやね、中世のダイヤ屋は賢かったんやねえ、今でもユダヤ人やインド人ダイヤモンド屋は賢いけども、我が国のダイヤモンド屋にはこんな頭のええ奴はおりまへんな、残念ながら。 しかし、しかし、 16世紀初頭よりAntwerpは大都市として多くの外国人商人の拠点となってゆきますが、その中でもイタリア人のいくつかのファミリー(シシリア・マフィアではございません、念のため)が富と名声を取得し、歴史に名を残しております。 彼らの中で特に有名だったのは、Juan CalrosというWommeelgemの美しいselsaeten城に住む男でした。 しかしながら、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
それでも苦難を乗り越えて、逞しく生きる職人たち、 しかし当然の帰結というべきか、この申請は却下となりました。外資の圧力に屈した行政当局・・・・、東洋のどこかにもこんな国あるね、技術があるというのは常に外圧を受ける対象となるということでしょうかね・・でも・・・・ああ情けなや・・・。 ところで、ヨーロッパの大商人たちは何故にギルドに反対したのか、そして行政当局が却下した“たてまえ”は一体なんだったのか、ということを知る必要がありそうです。 この点、流石に欧州越後屋は抜かりがなかったようで、彼ら大商人は、ダイヤモンド関連の労働者や中小ディーラーを仲間に引き入れておりました。 余談になりますが、 さあ、もうお先真っ暗のダイヤ研磨職人たち、 特定業界の献金をあてにしている自民党議員や、労働組合の支援がないと当選出来ない民主党議員には是非この章を読んでもらいたいですな、奴らアホやからこんな有益なページがあることも知らんやろうけどね。 高い技術レベルの維持に努めることが業界のみならずエリア全体の発展に繋がる、この点に絞った研磨職人たちの説得がついに為政者を動かしたのです、 とまあ、happy end、これで終わりであればウッキーも楽なんですけども、 |
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Ruby
ring of 17th century |
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「もし、経験乏しい無能な人間が宝石関連の仕事に就いた場合、Antwerpのダイヤモンド業者の質は著しく低下し、都市の内外で金持ちや有力者たちから厳しい評価を受けることになるだろう」 |
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下の写真をご覧下さい。 |
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当時のアントワープ図ですが、北側は大河なのですが、この川を天然の要害として、その水を引き込んで堀を作り、尚且つ城壁を巡らせてありますね。もうほとんど鉄壁と言っていいほどの守りでありますねえ。城壁の内部(右側)には耕作地らしきものも見られますが、農業従事者たちは毎日城壁の外に‘出勤して’畑を耕したり牧畜したりであったことでありましょう。現在では図のような堀は存在しておりませんけども、図にある大河はもちろん健在。アントワープ中央駅から徒歩20分くらいで港に行くことが出来ます。 |
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ベルギーは中世より図のようないくつかのエリアから成り立っていたようです。 日本人の感覚では理解し難いのが、ルクセンブルグの隣にルクセンブルグという地方があること。ウッキーは十数年前にルクセンブルグ国へ行ったことがありますが、この国は何かベルギーの一部分であるような印象だったですねえ、例えば、当時の通貨はルクセンブルグ・フランだったのですけども、ベルギーフランがそのまま使用できるし等価です。ところがベルギーではルクセンブルグ・フランの使用は出来ない、という具合にね。 |
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図の1〜4は現在の主要都市あるいは有名な場所です。 @ Antwerp A ブルージュ B ブラッセル C スパ(FIベルギーGPが行われるところ) Brabantというのは現在のベルギーの首都・ブラッセルのあたりなのですね。 いずれにしましても、当時の両都市は同じような言語を話す同じような人たちが住んでいたと解釈できそうです。 |
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など等、 スッキリとした出来栄えで、多くの人がアントワープのために知恵を絞って法令化したのが良く分かりますね。 しかしながら、彼らの思惑通りには物事は進展しなかったようです。 罰則規定の曖昧さ。 ギルドが発足できるか出来ないかという産みの苦しみの出来事からも分かるように、ギルドのルールも市当局のバックアップや好意なしには全く無意味です。そういう意味から16世紀末のAntwerp市当局には善良な為政者がいたように思いますね。 ギルドと市当局は協力し合って現実に合うように何度も法令を改正してゆきます。1600年からは毎年のように修正条項が加えられ、罰則規定に関するものの整備や法の目をかいくぐる事に関しての厳しい取締法なども追加されました。 しかしながら、1582年から1615年ごろまでの約30年間に起こった諸問題は数え切れず、多くの場合は根本的な解決策を見出せないままで放置されたようです。 |
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