第4章     ダイヤモンド・ギルド

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ギルドと言いますのは、ヨーロッパ中世の商人・手工業者の協同組合ですね、中学や高校の歴史の時間で学んだ通りでございます。何故にこのようなものが出来るようになったのかという歴史的な背景はいろいろありましょうが、一つは職人気質、匠の技を大事にして伝承してゆきたいという気持ちですね。後々になりますと当然ながらそのようなものは技術の停滞の大きな要因となるものですが、ギルド発足当初は、粗悪品を除外し、高度な職人芸・職人技に対して妥当な工賃が支払われるべきという当たり前の行動であったことでしょうね。
それほどアントワープのダイヤ研磨業者の技術が抜きん出ていたということでもありましょう。

ダイヤモンド業界は少なからず特殊、大都市の喧騒の中でさえ別世界を形成しております。これは時代の変化に関係なく、昔も今も同じ。巷の人々が目にする“業界人”というのは街の宝石店の主人や従業員でしかございませんが、その数十倍いや数百倍の人々がダイヤモンドに関わっているという事実、そしてそのことを知っている一般の人がどれだけいるのかと考えると、‘その数百倍の人のひとり’であるウッキーなどは時に微笑みを禁じえません。

弊社事務所のある南船場3−1−6はちょうど宝飾関連会社が集まっているエリアのど真ん中でしてね、通りに出てすれ違うのはほとんど業界人ばかり、100mゆかないうちに何度挨拶を交わすことかというような場所であります。東京の御徒町界隈でもそれは同じことでありましょう。21世紀の現代でも場所によってはこんな有様ですからね、16世紀のダイヤモンド関連の労働者は都市の一般的な社会生活にあまり参加してなかったということは十分頷けます。

そんなわけで、ダイヤモンドの業界が組織化されるまでは‘業界人’のことを古文書や公文書の中から拾うのは骨のおれる仕事とか。
Antwerp行政当局に保管されている古い書きものを漁ってみても、ダイヤモンド研磨産業勃興期において、為政者とダイヤモンド産業側との間にはほとんど協定らしいものが存在しなかったと結論付けざるをえないし、ダイヤ業界側にはスポークスマン的な人も全くいなかったようです。

何も問題が起きなければそれはそれで素晴らしいこと、自由主義資本主義経済が完璧に実践されている姿でございますからね、しかし、そんなわけにはゆかないのがどの世界でも同じこと、16世紀後半になり、研磨済み(ルース)ダイヤモンドの需要が飛躍的に拡大し研磨職人の仕事が追いつかないほどになりますと、種々雑多いろいろと問題が発生して参ります。

1540年までに既に多くの外国人がアントワープに入りこんで職を得ておりました。これは、アントワープが他の都市と比べて容易に働き場所を見つけられ高賃金であったという意味ですね。それというのはもちろんダイヤモンド産業があるからで、移住して来た外国人はダイヤ業界で働けるように直ぐ市民登録したとか。中世のアントワープは現代日本のような様相であったわけですな。
しかしながら、現在日本でもそうですが、外国人労働者の大きな問題点の一つは、彼らが仕事をやめて犯罪者となって不法滞在することでありましょう。古今東西、外国人犯罪者のやることは同じようなものですが、アントワープの堕落した外国人労働者がやったのは通常の犯罪の他、ニセ・ダイヤ職人になることでした。

“ニセ・ダイヤ職人”?
ほとんど技術を持たない男たちが簡単にゼニを儲けようとしてダイヤ研磨職人を騙り業界内に入りこんで来たというわけです。
彼らの多くは、Antwerp中心部ではなく、その周辺部に出没したのですが、粗悪な仕事がどんどん目に付くようになり発覚したということですね。彼らは、相場よりも格段に安い工賃で仕事を請け負っておりました。

ここに初めてダイヤモンド研磨職人たちの組織化の動きが出始めます。
最初の発起人たちの考えは、以前からのアイデアである効率的な仕事をできる環境整備に加えて良質の製品を市場に供給し続けないと生き残っていけないという本来の市場原理を踏襲したものでした。ですから、ギルド設立の理念は以下のような事項を守ることが前提でありました。

1.ダイヤ研磨職人になるには、長い見習い期間と高い授業料を支払わねば
   ならないというシステムの構築。
2.ダイヤ研磨職人の工賃をその経験と完成度によって段階的に引き上げて
   ゆくこと。
3. 家内工業を守るために大きな組織の介入を防止すること。

な、なるほど、3はともかくとして、1と2はまるで日本の法曹業界のようでありますねえ、法学部に入って司法試験にやっとこせ合格して弁護士になって見習いして独立・・・、ゼニをタンマリ稼げるようになるには時間が掛かるけども一度なってしまえば・・というやつやね、中世のダイヤ屋は賢かったんやねえ、今でもユダヤ人やインド人ダイヤモンド屋は賢いけども、我が国のダイヤモンド屋にはこんな頭のええ奴はおりまへんな、残念ながら。

しかし、しかし、
このギルドの設立はそう簡単には運ばなかった、ちゅうのは当たり前のことですわな、とにかく3が問題、そうは問屋が卸しマヘン、大商人が許しまへん。

16世紀初頭よりAntwerpは大都市として多くの外国人商人の拠点となってゆきますが、その中でもイタリア人のいくつかのファミリー(シシリア・マフィアではございません、念のため)が富と名声を取得し、歴史に名を残しております。
彼らはバスコダガマやマゼランの航海を支援していたのです。

彼らの中で特に有名だったのは、Juan CalrosというWommeelgemの美しいselsaeten城に住む男でした。
フムフム、こいつが欧州越後屋やな、

しかしながら、
この越後屋、スケールがデカイ、
『お代官様こそ・・・』なんていうチンケな物言いは絶対にしなかったに違いない、なんせ彼はイングランド王のチャールズ5世やエドワード6世に莫大な融資をしていたというのですから。

欧州越後屋


たまらんねえ、こんな豪商が相手ではギルド作るのも大変、
それに加えて、ポルトガル商人たちもまたダイヤモンドの産業に大きな発言力を持っていたとか。
前門の虎、後門の狼、
生きて行くのさえ大変そうですな。

それでも苦難を乗り越えて、逞しく生きる職人たち、
ついに彼らは1577年、アントワープ行政当局にギルド設立申請を行います。
40人の職人集団、おお晴れがましい!

しかし当然の帰結というべきか、この申請は却下となりました。外資の圧力に屈した行政当局・・・・、東洋のどこかにもこんな国あるね、技術があるというのは常に外圧を受ける対象となるということでしょうかね・・でも・・・・ああ情けなや・・・。
それはともかく、やはりゼニの力には地方行政官などは太刀打ちできまへん、この事態救うべく果たしてベルギーには“水戸のご老公”はいらっしゃるのか?! 
『この紋どころが目に入らぬのか!』ってね、出てきてくれないものか、本当に気になります。

ところで、ヨーロッパの大商人たちは何故にギルドに反対したのか、そして行政当局が却下した“たてまえ”は一体なんだったのか、ということを知る必要がありそうです。
大商人たちの思いは常に同じ、何かによって自分たちが不自由を被ることがイヤなだけ、実際に被ってなくても少しでもそのリスクがあるなら反対する、時代とエリアを問わず、常に同じ反応を示すのが既得権益を持った大商人ですな。
しかしそれだけでは為政者を納得させることは出来ません、なんぼ小判や金貨をドサッとお代官様の前に積み上げたとしても、
『越後屋、何か良い手立てはないものかのう』となるだけ、
しっかりとしたお膳立てが必要でございますね。

この点、流石に欧州越後屋は抜かりがなかったようで、彼ら大商人は、ダイヤモンド関連の労働者や中小ディーラーを仲間に引き入れておりました。
いくらアントワープのダイヤ研磨技術が優れていると言っても、それを持ち運んで販売してくれるディーラーがいないと職人たちも安心して仕事が出来ませんね。そして、逆に彼らのところにダイヤの原石を調達する役目の原石ディーラーも当然おります。商品の流通機構というのは今も昔もそうそう大差はないのです、売りも買いも大手から中小、そして零細に流れるのが普通であります。当たり前の話ですが、ヨーロッパの大商人たちも彼らとダイヤ研磨業者との間に位置する中小零細をガッチリ握って、それらの人々を使って行政当局に圧力を掛けさせたということです。この中小零細業者たちによる運動、“ギルドは弱い立場の独立事業主を排斥するものだ!”というキャンペーンは数の面でも圧倒的に有利でしたから、行政当局も内心はシメシメだったかもしれないけども、ギルド申請を却下せざるを得ませんでした。

余談になりますが、
この頃にはダイヤ関連に面白い業種があるのですね、
“clothes chapman”と呼ばれる人たち。
ダイヤモンドを衣服に縫い込んで販売する手工業者です。今でもやってる人はもちろんいるのでしょうけども、ダイヤモンドの服を着てるなんてね、ちょっと趣味が悪過ぎる、16世紀ごろのヨーロッパ王侯貴族ならではの醜悪さなんでしょうが、立派に商売になっていたということは結構な需要があったんですねえ、全く信じられん!
このchapmanたちも当然ながら大商人の先兵としてギルド反対に回ったことは言うまでもございません。

さあ、もうお先真っ暗のダイヤ研磨職人たち、
しかし、彼らは不屈の闘志、粘り強く行政当局を説得します。
彼らの説得の材料は圧倒的に優れた技術。とにかく粗悪品と比較して欲しい、粗悪品の流通を許すことはAntwerpの衰退を導くことになる、ギルドの繁栄によって税収面のメリットは計り知れないし、経済効果はオリンピックや万博を開催する比ではない等など、な、なにィ、オイちょっと待て、そんなもん16世紀にはなかったやろ、って? スンマヘン、ええ加減なこと書いたらアキマへんな、もとい!  そうです、経済効果ということに関していえば、Antwerpの技術と接したいがために多くの商人や技術者・職人が各地から集まるわけですね、そしてそのお蔭でダイヤ関連ばかりではなく、ホテル業不動産業等が儲かるし、飲食店などの盛り場も繁盛する、郊外の農家も現金収入が増える・・・、ホントAntwerpにとっては良いことずくめであるはず。

特定業界の献金をあてにしている自民党議員や、労働組合の支援がないと当選出来ない民主党議員には是非この章を読んでもらいたいですな、奴らアホやからこんな有益なページがあることも知らんやろうけどね。

高い技術レベルの維持に努めることが業界のみならずエリア全体の発展に繋がる、この点に絞った研磨職人たちの説得がついに為政者を動かしたのです、
ジャ、ジャーーン!!
1582年10月25日、
『Corporation of Diamond and Ruby Cutters』
の誕生です。
最初の却下から苦節5年、Antwerpの職人たちは、もはや誰にも邪魔されることなく、その研磨技術に一層の磨きを掛けられることとなったのでありました。
デメタシ、デメタシ。

とまあ、happy end、これで終わりであればウッキーも楽なんですけども、
これからがホンマのお話が始まるわけですね。
歴史を追ってゆきましょう。

Ruby ring of 17th century Ruby ring of 17th century


この1582年に施行されたギルド設立に関する法令には、設立に尽力したダイヤモンドとルビー研磨業者の名前が列挙され、設立の理由を
“都市の名声のため”
と銘記されております。

「もし、経験乏しい無能な人間が宝石関連の仕事に就いた場合、Antwerpのダイヤモンド業者の質は著しく低下し、都市の内外で金持ちや有力者たちから厳しい評価を受けることになるだろう」
という‘前文’で始まる法令は39項目から成り立ち、主なものは以下のような記述であります。
ちょっと長くなりますが、解説を交えながら列記しておきましょう。


1.
アントワープの自由市民のみが研磨工芸を学ぶことができる。
この第1項は非常に重要なポイントでございますね、ダイヤ研磨を勉強して世に出たければアントワープの健全な市民にならないといけない、ということなんですが、都市の興隆にとって不可欠な人的資源の確保ですな。今と違って中世ヨーロッパは、戦争や疫病で人口減の地域が相当あったと推測されます。とにかく都市として発展するためには多くの人口を抱えなければいけないということでありましょう。


2.
ダイヤモンドに関連する仕事は都市の城壁内部でのみ許される。
城壁内部というと、殿様やその家来が集まり住んでいるという印象がありますが、それは日本の感覚ですね。中国でもそうですが近世になるまでのヨーロッパは、戦争になれば皆殺しの世界、兵隊ばかりでなく住民も全部殺戮の対象です。当然ながら都市部の大部分の広いエリアがベルリンの壁のような高い壁で囲まれておったわけです。

下の写真をご覧下さい。

アントワープ図

当時のアントワープ図ですが、北側は大河なのですが、この川を天然の要害として、その水を引き込んで堀を作り、尚且つ城壁を巡らせてありますね。もうほとんど鉄壁と言っていいほどの守りでありますねえ。城壁の内部(右側)には耕作地らしきものも見られますが、農業従事者たちは毎日城壁の外に‘出勤して’畑を耕したり牧畜したりであったことでありましょう。現在では図のような堀は存在しておりませんけども、図にある大河はもちろん健在。アントワープ中央駅から徒歩20分くらいで港に行くことが出来ます。

3.
市当局は、毎年11月30日の聖アンドリュースdayに理事会の監督官を選出する。


5.
選出された理事会のメンバーや監督官は、その選出を拒否できない。
ということでありますから、結構民主的に選出されていたという解釈ができそうですな。くじ引きで選んだとか、持ち回りとか、とにかく権力が集中しないということに神経を注いでいたということが読み取れますね。


7.
事業主が見習い人を置いた場合、2週間以内にそれをギルド本部に申告し、6週間後までにはその見習いの適格を判断しなければいけない。
6週間以内で適正検査に合格しないといけないということですね。結構辛いのではないかと推測します。それくらいダイヤ研磨職人の登竜門は狭かったということでしょう、現代日本の入試よりも数段難関!?


11.
その見習い人が適正と判断され、業界への参加を希望する
AntwerpまたはBrabant生まれの者であるなら、ギルド入会金は1ポンド10シリングである。


12.
事業主の息子のギルド入会金は半額で良い。


13.
Antwerp、Brabantの外からの徒弟や奉公人の入会金は2ポンドとする。
Brabant? 下の図をご覧下さい、ウッキー手製の読みにくさはご勘弁を。

ベルギーは中世より図のようないくつかのエリアから成り立っていたようです。

日本人の感覚では理解し難いのが、ルクセンブルグの隣にルクセンブルグという地方があること。ウッキーは十数年前にルクセンブルグ国へ行ったことがありますが、この国は何かベルギーの一部分であるような印象だったですねえ、例えば、当時の通貨はルクセンブルグ・フランだったのですけども、ベルギーフランがそのまま使用できるし等価です。ところがベルギーではルクセンブルグ・フランの使用は出来ない、という具合にね。

ベルギー エリア図

図の1〜4は現在の主要都市あるいは有名な場所です。
 @ Antwerp
 A ブルージュ
 B ブラッセル
 C スパ(FIベルギーGPが行われるところ)

Brabantというのは現在のベルギーの首都・ブラッセルのあたりなのですね。
アントワープ市民と同様にBrabant生まれの人間が優遇されたということは、当時から両都市は密接な関係で結ばれていたということに他なりません、ちょっと不思議な感じもありますが。と言いますのは、ブラッセルの人間はフランス語を話す人が圧倒的なのにアントワープではオランダ語の方言のフレミッシュなんです。両都市は鉄道でわずか30分ほどの距離、ちょうど大阪―京都間くらいのものでしかないし、ほぼフラットな地形で大河や丘陵に隔てられているというわけでもない。単純に考えるなら、アントワープはオランダに、ブラッセルはフランスに領されていた期間が長かったということでしょうか。

いずれにしましても、当時の両都市は同じような言語を話す同じような人たちが住んでいたと解釈できそうです。


14. 徒弟や奉公人としていられるのは最長5年間とする。


15. 事業主は同時に3人を越える徒弟、奉公人をとってはいけない。
この項目もギルド設立に際し大きな眼目のひとつであった寡占化に対する抵抗ということでありましょう、事業主が大きくなって大人数を抱え大勢力となることを禁じるということですね。


19. 見習い期間の後、事業主になる前に職人として雇われの身であるのは構わない。
やはりこの世界でも腕の良い‘流しの職人’というのもいたのでしょうかね。


20. 事業主になるための試験は、ギルド監督官事務所で行われる。試験内容は、ダイヤ原石の切断、磨き、仕上げであるが、テーブル面を広く取ったもの、狭く取ったもの、ファセットを研磨したものという3タイプの、それぞれが0.5カラット以上のダイヤを研磨しないといけない。
ウッキーはもちろんダイヤ研磨なんてやったことないですけども、やっている人から何度もその難しさを聞いております。ダイヤには成長の方向性というものがあって、素直で良質の原石は研磨が簡単とか。そういうのは当然ながら高品質のハイグレードな商品となるわけですね。反対に、性質の良くない原石も多くて、その‘方向性’たるやヒドイとのこと。方向性が良くないとどうなるか? 切断や研磨、仕上げが思うに任せず、結局のところ、職人のアイデア通りの商品にならないケースが往々にして出てくる、ということです。時々、2.98カラットとか0.498カラットとかっていうような商品がありますが、そんなような思うに任せなかったモノなのでしょう。しかし、監督官にイジワルされて、とんでもなく質の悪い原石を渡された日にゃタマランね。


27. 外国人とAntwerp、Brabant外でダイヤ加工を学んだものが、このエリアで組織に入って仕事したいと欲するなら、5年間徒弟奉公し、その後1年間職人として勤めなければいけない。


29. 事業主が仕事するにあたっては次のいずれかを許される。
3つの研磨台を持ち、9つのダイヤ原石を研磨すること。あるいは、4つの研磨台を持ち、7つのダイヤ原石を研磨すること。


30. ギルドの合意なしに自宅に工場を作って事業主を置いてはならない。


31. ギルド監督官は法廷に容疑者を呼び出す権限を有する。
監督官は検事でもあったわけですな。


33. 自由な事業主のみが職人に対して月給あるいは年俸を支払うことができる。
事業主は裁判沙汰になって有罪判決を下されると‘自由人’ではなくなる、ということでしょうね。


35. 模造品や偽物を取り扱った者は永遠に事業主としての資格を失う。


37. ギルド監督官は、市の役人とともに、法令に従っていないと疑われる者の家宅捜索を行うことができる。
監督官には警察権もあったわけですな。


39. 市当局が、独立した事業主間に意見の合意がなされないと判断された場合、その争点を裁判で明らかにされなければならない。


など等、
スッキリとした出来栄えで、多くの人がアントワープのために知恵を絞って法令化したのが良く分かりますね。

しかしながら、彼らの思惑通りには物事は進展しなかったようです。
一見スッキリのギルドの法令ですが、上記項目はかなりの論議を呼んだのでした。
まず、外国人に対して敷居が高すぎるのではないかという点、また、ギルド運営者や監督官にパワーを与え過ぎているのではないかという点、そして何よりも、多くの職人自体が厳しすぎるギルドのルールに馴染まなかったという全くコメディーでしかない事態も表面化してしまいます。

罰則規定の曖昧さ。
これも大きな問題点ですね。市当局によって定められる裁判所は刑罰を課すことができましたが、その判決が実際に速やかに行われたかを確認することは非常に難しかったようで、当然ながら訴訟に次ぐ訴訟という事態に発展せざるを得ない。そのため、市当局は絶えず忠告を与えたり判決を公表することを求められていたようです。
ギルド側と、商人として生きて行くためにギルドの規制の網を潜ろうとするダイヤモンドディーラーとの関係も険悪で、制定されたギルド関連法の不備は早々と露呈されることとなったのでありました。

ギルドが発足できるか出来ないかという産みの苦しみの出来事からも分かるように、ギルドのルールも市当局のバックアップや好意なしには全く無意味です。そういう意味から16世紀末のAntwerp市当局には善良な為政者がいたように思いますね。

ギルドと市当局は協力し合って現実に合うように何度も法令を改正してゆきます。1600年からは毎年のように修正条項が加えられ、罰則規定に関するものの整備や法の目をかいくぐる事に関しての厳しい取締法なども追加されました。

しかしながら、1582年から1615年ごろまでの約30年間に起こった諸問題は数え切れず、多くの場合は根本的な解決策を見出せないままで放置されたようです。
16世紀末から17世紀前半は、ダイヤモンド産業の興隆と混沌の時代、と言えるかもしれませんね。

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