第2章     戦国時代とダイヤモンド

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戦国時代というと応仁の乱から下克上の時代へと続く日本のことかと感じられますが、そうではありません、舞台はもちろんヨーロッパ。

15世紀、欧州は100年戦争(1337〜1453)でメチャクチャなことになっておりました。こんな折に何がダイヤじゃ! と思うかもしれませんけども、電子マネーがない時代ですから、やはり金(ゴールド)と宝石は戦う者にとって絶大の信頼感ですな。

そして、日本の戦国時代を考えてみると良く解るように、戦争というのは必ずしも悪い面ばかりじゃない。信長や秀吉が大いに成功を収めたのは、古い因習や規制をとことん撤廃したことと新しい技術の積極的導入、そして貨幣経済の発展を促したことにより、富を集中させるシステムを作り上げたことによりますね。
彼らの政策の副産物として嗜好品の流通というのもある。
茶器や陶器などの名器・珍貴なるものがもてはやされ、高価な値段で取引されるというようなことにもなったわけです。
このような日本史を頭に思い描くと、当時のヨーロッパのダイヤモンド事情を良く理解できるような気がします。

さて、15世紀の中頃ようやく百年戦争が終結しまして、いっそう物流が活発化してまいります。このころヨーロッパ一華やかな宮廷生活を送っていたのは、フランス北部からベルギー・オランダの支配者、ブルゴーニュ公・シャルルなんですが、彼の贅沢をささえていたのがベルギーのブルージュ(出張レポート2004年4月号参照)でございました。
“北のベニス”と呼ばれていたブルージュ、それは単にたくさんの運河が巡らされた美しい都市という意味ではありません。中東やアジアからの輸入品の多くは、イタリア・ベニス商人によってブルージュに持ち込まれておりましたし、ブルージュに彼らイタリア人がしっかりと根を下ろし、イタリア人街を形成していたということが大きいのではないでしょうか。
活発な貿易と物流、商人と旅行者の行き来。このブルージュは当時ヨーロッパの文化・経済の一大中心地であり、ここを支配するシャルルは、そこから上がる莫大な税収と交易による豊かな物質で騎士道文化を大いに発展させたということですね。

このシャルルによって贅沢品の需要は莫大な額になってゆきました。
当時の記録に次のような興味深いものがあります。
ブルージュ市民で、画期的に美しいダイヤモンドのカッティングを考案したLodewijk van Berekemという職人に、シャルルは3つの超ド級ダイヤモンドの研磨を命じます。磨り上がったひとつの巨大ブリリアントはローマ法皇・Sixtus4世にプレゼントされ、三角錐にカットされた化けモノ的ダイヤは2つの手を象った指輪に加工されフランス王ルイ11世に和解の印として贈答されました。そしてもう一つは当然シャルル本人のもの。これは、有名なSancy Stoneと呼ばれるものですが、惜しくもシャルルが戦死した時に身に付けていて、それ以降、行方が分かっておりません。
これらの仕事で、職人のBerekemは3,000ダカットをシャルルより与えられたとのこと(ダカットは通貨単位)。
この金額、ピンときませんが、考えると強烈!
1ダカットは当時ヨーロッパで使われていた金貨一枚分の値打ち、江戸時代の1両小判の5分の1、いや、10の1の価値と考えても・・・ウッひょエーー!
(ちなみに江戸期の1両は、現代の5万〜10万円と言われておりますね。)

余談ですが、中世のダイヤモンド研磨は角形がほとんどで、ラウンドへと進化するのはもっと先のこと。ですから、Berekemの貰ったという工賃の額があまりにも莫大ということもあり、彼の存在自体も単に伝説ではないのかと疑われているとか。

しかしながら、ブルージュ ― ベニスというホットラインが形成されていたのは間違いのない事実で、ブルージュ市当局1465年の公文書には、ダイヤモンド研磨職人の記述が出てきております。

下の文書、
何が何やらサッパリ判読不可能ですけども、
一種の住民台帳らしいですね。


ブルージュ市当局1465年の公文書


ところで、イタリア商人がどうして本国・ベニスでダイヤの研磨をやらせなかったのか、という疑問が出てきますが、どうやら輸送の安全性ゆえということらしい。
動産保険も綜合警備保障もおまへんな、せやから強奪や盗難に遭えばもう終わり。ところが、ダイヤモンドの場合、その研磨が非常に特殊な技術を要しましたから、原石で持ち歩くと比較的安全だったということですね。盗まれても原石のままでは全然輝かないから値打ちもない、研磨に出してしまえば狭い業界、いずれは知れわたる、そんなところでしょう。
ブルージュは、ブルゴーニュやシャンパーニュという大消費地を近くに持ち、ネーデルランドへ向かう街道沿いにもあったという地の利が大いに幸いしたということですね。

ところがですな、盛者必衰、
ブルージュの繁栄に陰りが見えてきます。
ブルゴーニュ公国の衰退と滅亡が原因。
日本の歴史とシンクロすることの多い欧州の歴史。信長の死後、大阪の港町&ハイテク都市・堺が全く振るわなくなり、歴史の表舞台からはほとんど姿を消してしまうのに似ております。

百年戦争は1453年に終結しましたが、イギリス側からのフランス領侵犯は1475年まで続きます。百年戦争勃発以来、王家の血筋などの関係で常に英国側につき、フランスと戦ったブルゴーニュ公国。シャルルの代になってますます発展しますが、1476年、彼は領土拡大のための遠征に失敗、2度の戦いに連敗して国を疲弊させてしまいます。そしてついにNancyの戦い(1477年)でシャルルは戦死、ブルゴーニュはフランスに併合されることになってしまいました。

Charles the Boldと呼ばれ勇敢かつ派手好み、日本語では“シャルル大胆王”と訳されるブルゴーニュ公シャルル、何故かホンマ信長的でんな。
しかしシャルルが信長でなかったのは、その戦い方。
騎士道をあまりにも重んずるがゆえの戦闘方法、美しく勝たねばならなかったのですねえ。その古い考えのために、新しい戦い方、歩兵の集団戦法にあっけなく敗れてしまったということです。
騎士道を極限まで昇華させたようなシャルルの死、美しいダイヤモンドとともに華々しく散った英雄、おおっ、絵になるねえ、ストーリーになるねえ、
メチャ感動的!!

さて、歴史にifはつきものですが、
もし、ブルゴーニュ公国が発展していたとしたら・・・・?

シャルルの死とブルゴーニュ公国の滅亡により、フランドル地方(ベルギー)とネーデルランド地方(オランダ)は大きな自由を手に入れます。特にネーデルランドは、ほぼ自治権を獲得、のちにレンブラントが描いたような自警団でもって都市を守るような自治都市が多数誕生するのです。
いやホンマ、歴史はおもしろい!

シャルルとその子孫が健在だったらAntwerpの発展はなかった!?
そうでしょうか?

確かに、ブルゴーニュ公国の滅亡でブルージュの栄えも風前の灯と見たイタリア・ベニス商人たち。沈みゆく船から逃れる如く、彼らは早々に西ヨーロッパの拠点をアントワープへと移し替えてゆきます。

ブルージュに代わってアントワープが注目され発展する定めにあったのは、その海運・水運の良さによります。大河を利した天然の良港が既にあったからということなんですな。
そう、ここにはホント地の利があったようです。
ベニス商人が大挙してアントワープに移住する以前から、物流と交易が活発で、ジュエリー・ビジネスが一般化していた様子を表わす公文書があります。

『アントワープ居住者並びにアントワープへの旅行者は、次の取引をするべからず。

1、 造のダイヤモンド、ルビー、エメラルド、サファイアを取引すること。
2、 模造宝石を付けた金、銀、銅製品の売買と質入れをすること。

これらの不正を犯した者には、その程度に関係なく、25ダカットの罰金を科す。
その25ダカットの、3分の1は領主へ、3分の1は町へ、3分の1は情報提供者へ分配される。』

そして1498年、
ヴァスコダガマのインド航路発見。


ヴァスコダガマのインド航路発見


これより、ブルージュ ― ベニスのホットラインは、
アントワープ ― リスボンへと取って代わられることとなったのでありました。

いきなりアントワープか?
ここまで書いてきて疑問も少々・・・
そうですね、ブルージュの没落についてはもう少し付記しなければなりません。堺の栄華盛衰と重なる部分が多いということは既に述べましたが、ともにその繁栄の庇護者(シャルルと信長)を失ったということが大きな痛手であったわけですけども、港町である以上、港としての機能を失ったということが、歴史から突然に姿を消して2度と登場する事がなくなった原因です。

大阪市とそのすぐ南の堺市の境界となっている大和川、昔から現在のような流れで大阪湾に注がれていたのではございません、江戸・元禄期を過ぎた頃くらいまで大和川は淀川の大きな支流のひとつとして今の東大阪市あたりを流れ、雨季になると毎年のように氾濫を繰り返し、付近の農民に大きな被害を与えていたのでした。もちろん毎年のように治水工事を行ってはおりましたがラチ開かず、ついに幕府は大規模土木工事、川の付け替えという決断をします。大和川は完全に淀川から切り離されて流れを変えられ、堺のあたりで海へ落とし込まれたのでありました。
その結果、農民は助かりましたが、元々元気な流れで有名だった大和川、多量の土砂を堺の海へと運んでしまい、港湾を遠浅の海水浴場に変えてしまったということでございますね。

ブルージュの衰退とアントワープの興隆という事実を決定的にしたのは、ブルージュ市内を流れる交通の大動脈Zwin川の悲劇、どんなことが起こったのかは定かではございませんけども、川に土砂が沈泥してしまって小船しか航行できなくなったということなんですなあ。
このあと、原石の供給は当たり前のようにAntwerpへと流れるようになりました。

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