◆ ベルギー カラーダイヤモンド買い付けレポート 2001年11月

帰国便というのは旅行者にとってこの上もなく憂鬱なものであろうが、我々バイヤーには久々の解放感、心休まるひとときである。

11月1日、日本ではもう日付が変わり2日午前、夕闇迫るバルト海上空を飛行中だ。

ニューヨークのテロから約2ヶ月、飛行機に乗るのは気が重かったがベルギーに行かないと仕事にならない現実がある。私にとってはまさに死活問題なのだ。

アメリカへの渡航者は激減のようであるが、欧州便はそこそこ旅行者もいる。ざっと見渡して70〜80%の座席が埋まっているようだ。

私は今でこそベルギーにしか行かなくなってしまったが、かつてはニューヨークにもよく行った。アントワープ(ベルギー)、テルアヴィヴ(イスラエル)、ムンバイ(ボンベイ、印度)そしてニューヨークが日本人バイヤーの集まる4大ダイアモンドマーケットなのだが、バブルエコノミー華やかしころは一度の出張に2〜3週間をかけこの4つのうちの2、3ヶ所をいろんな組み合わせでまわったものである。


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追悼の意味もあり少し思い出を綴ってみたい。

初めてマンハッタンの夜景を見たのは平成の元年(1989年)だった。

郊外のニューアークという空港に着いたのがもう夜の8時頃だったろうか、今と違いテロの心配はなかったけれど、強盗が多い、日本人旅行者と見られれば金を脅し取られる、とかいろいろ聞かされていたので飛行機からの一歩がものすごく重かった。ところが、到着後は驚きの連続だった。

取引先から迎えの男がきていた。はいどうぞ、とドアを開けてくれた車は馬鹿でかいリムジン、『えっ、俺これに一人で乗るの?』、『当たり前ですやンか』、みたいな会話を交わして、、、。車内ではあまりにも広すぎて身の置き所がなかった。なんせ運転手は5,6メートル前方である。おかげで聞き取りの難しそうなニューヨーカーの英語の相手をせずにすんだけども。

しばらく行くと突然おなじみの夜景が見えてきた。橋を渡りながら徐々にその風景に近づいてゆく。う〜ん、コマーシャルや写真で見たのといっしょや、おおっ、衝撃。


ホテルもヘルムズレーパレス、という一流どころ。もちろんこの出張のアレンジは自分自身でやったわけではない、全て取引先任せ。今と違い景気は良いし、私もサラリーマン。自らの懐が痛まぬなら当然VIP扱いは大歓迎なのだけど、当時30歳、普段からシャイな私は3、4日の滞在中朝食を食べにレストランに行く勇気がなく、毎朝ルームサーヴィスだった。うー、今から考えるとなんともったいない、ヘルムズレーパレスなど2度と泊まれないだろうに。ちなみに、そのころ我が国の外相が訪米して滞在したのはここよりもやや格下のホテルだった。

わずか2、3年後、バブル崩壊の悲哀をこの同じニューヨークで味わう事になる。

すっかり景気が悪くなってしまってもまだ何年かはニューヨークに通っていた。飛行機もホテルも当然エコノミークラス、もはやヘルムズレーには全く縁はなくなっていた。ルーズベルトという名前だけは超一流の実はボロボロのホテルがこのころの定宿となっていた。泣きそうな位ひどかった。チェックインしてさあ旅装を解こう、ああっ、カーテンを閉めないとな、あレッ、カーテンがない、ブラインドがある、と引っ張ったとたん全部上から落ちてきた。デスクの前に置いてある木製の椅子に座ってチャーリーシーンの'ホットショット'を見ていた。笑いすぎて後ろにそり返った瞬間イスがつぶれ、、、。いったいどっちがコメディーや。時には何年も使ってないようなかび臭い部屋に入れられ呼吸困難で倒れそうになった。

他に何ぼでもホテルあったやろ、って。確かに。でも、ダイヤモンド市場(5番街47番通り)に最も近くで朝食が美味しくてウエイターのおっさんが愛想良かったのを実は気に入っていたのだった。


そうそう、あのあたりというのはやたらに日本レストランが多かった。1ブロックに一つはあったような気がする。昼飯は『淀』だか『淀川』だか忘れたけど、なんかそのような大阪風の名前のところでよく食べていた。カツ丼とか親子丼とかが10ドルで大阪の昼飯相場から考えると随分と高い物であったけどアメリカンサイズである。とてつもなくビッグ。こんなどんぶり見たことないなというような器である。我々の頭の中にある標準サイズの軽く3倍の量だった。私もまだ若かったから時には全て平らげたけども大抵は残してしまった。あのサイズをアメリカ人女性が軽く食べてしまうのを見てやはりアメリカと戦争するのはよした方がいいと強く感じるのであった。

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どこに行っても食事は楽しい思い出の一つなのだけども、なんかニューヨークの場合は苦痛の思い出も多い。買い付け先の会社の社長にロブスターを食べに連れて行ってあげると言われなんかイヤーな予感がした。カツ丼であれやからなア、ロブスターとなるとこれはもう、、、、。メインディッシュの皿が運ばれてくるのを見た瞬間私の頭の中にはいろんなことがよぎった、ビール2杯も飲むんは暑い時だけにしとかなあかんな、アメリカでは前菜というのは注文したらあかんな、ロブスターどれくらい食べたら格好つくやろ、ひどい腹痛になって病院行って英語でなんていうたらええのやろ、、、などなど。

幸いにも理解ある社長のおかげ(?)で事なきを得たけども、これから初めてアメリカを訪問しようと考えている方、食事には十分気配りを(?)。

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一番わくわくしたのはなんと言ってもメジャーリーグの試合を見に行く前だった。
私は甲子園こそ出場してないけど知る人ぞ知る元高校球児なのである。渡米前から仕事は二の次3の次、メジャーの試合を生で見るのが一番の目的だったのだ。

ホントはヤンキースタジアムへ行きたかったのだけど、事務所の人間がメッツファンでいつもシェイスタジアムだった。当時、新庄はまだ阪神入団前、ピアザは野茂とバッテリーを組む以前のドジャースマイナー時代、バレンタイン監督はロッテの監督だったのでは?


なんせ今のように日本のテレビでメジャーの公式戦を中継するということは全くなかったからほとんど知識はなかった。ただ、野球のセミプロとして純粋にメジャーのスピードとパワーを堪能したかっただけなのだが、期待はずれの試合が多かった。まあ聞いて下さい、初めてボールパーク(アメリカでは球場の事をこう呼ぶそうである)に足を運んだ日の決勝点はなんとなんとスクイズ!!!ざわめく場内の喧騒の中、私もおもわず日本語で叫んだ。
『俺、こんなん見に来たんちゃうぞ!!!』

でもあの球場の雰囲気は好きだった。
甲子園のようにやかましくないのがいい、アナウンスが少なくて耳障りでなくていい、そして7回裏の攻撃前にスタンドの全員が立ち上がって『ボールパークに連れてって』という歌を歌っているのがなんともアメリカ風やね。酔っぱらいが時々喧嘩してたのは甲子園といっしょやったけどな。


おもしろことにいつも一緒のアメリカ人は野球のド素人でーこんな事信じられますか、何に面食らったかと言ってアメリカ人から野球の初歩的な質問をされるとは思わんかったなーピッチャーに打席がまわり送りバントしたらあいつは打撃がだめなんだな、なんて言う。こういうやつに限って多分相撲の決まり手なんか日本人よりもよく知っているのだろう。

一応真面目に仕事もしたからひどい目には遭わなかったけども、日本人と日本の物が溢れていたのが一番ショックといえばショックだった。近くに大阪でもお馴染みの書店があり日本の文庫本がいっぱい並んでいた。リアルタイムの日経新聞も読めた。

高層ビルの中から街を眺め、いろいろ感慨に浸った、、、。


当分ニューヨークに行く事は考えられない、テロがなかったとしても同じであろうが、かつて少しはなじんだ所があのようなことになり全く言葉もない。

そして思いは日本に戻る、これは決してロマンチックな事ではなく実にネガティブなことで。

まず、社民党のバカ女たち、ええかげんにせんかい。

原陽子、こいつがテロの後、『ザマーみろと思っている人間だってたくさんいる』と自らのHPに書いた問題の代議士である。前回の衆議員選で全国最年少当選のまだ20代の女性だがとりえと言えば若いだけ、全くとんでもない大バカヤローだ。あの繰り返し放映されたテロのシーンを見て『ザマー見ろ』と言える人間性は私には想像できない。テロも信じがたかったけどそれ以上に遥かにUnbelievableだ。アメリカ国民の神経を逆なでするような発言を代議士の立場で平気で述べているのである。しかも、20人を越える邦人が犠牲になっているにもかかわらずだ。汚職代議士が議員辞職なら原陽子は永久追放の大罪だ。しつこいけど何度も言おう、我々多くの日本人は都市部へも行くし飛行機も使う、肉親や友人が海外に居を構えている人も少なくないのである。それなのにどうしてあのテロを自分自身のことと置き換えて考えられないのか、まったくテロそのものよりもこちらの問題の方が大きいと感じる。

辻元清美(漢字あってたかな?)、こいつは大阪の恥部である。

大した見識もなく理論もなく、毎度どっかに出てくれば大阪弁でがなりたて、やかましいだけの年増。こんなやつは威勢だけで実のところは全く中身がない。自らのパフォーマンスのみに意味を見出しているが如くである。吉本が一番お似合いの舞台と思われる。

そして、土井のおばはん、相変わらずのピンボケ発言、まるでうちの商品の写真やな(これは笑ってる場合ではない)。私の記憶ではテロの後すぐさま、『報復は報復を呼ぶ』と最初に発言したのが土井氏であった。ところが、CNNや BBCのニュースを見ているとアメリカの対応は『attack back』または『strike back』と表現されている。これは普通に訳せば反撃であろうし、テロの標的となったアメリカはもちろん我々日本人も報復という言葉には違和感を感じる。言葉だけではなく、発言自体どうしようもない。

具体的にどうすればよいというのか。「テロリストの皆さ〜ん、さあ、話し合いましょうよ」というのか。言われて出て来てくれるテロリストがいると思っているとしたらもう彼女はただのボケ老人だ。
もっと現実的な発言があって然るべきである。流石に憲法を仏典や聖書の如く奉り、政治を神学論争にしてしまったかつての社会党の最後の生き残りだ。先の湾岸戦争に先立つ湾岸危機の折、多国籍軍の攻撃を前に土井氏はイラクのフセインに会いにのこのこ出かけ、見事フセインのプロパガンダとして利用され世界中の失笑を買ったのである。こんなことももうお忘れなのかな。

もう止まらない。誰か止めて!!

共産党、アホ、お前たちの偽善に溢れたスピーチはもう聞き飽きた。
毎日駅前で朝っぱらから騒音撒き散らすな。

こちらも同じ『暴力反対話し合い派』である。わしはあんたたちに聞きたい。それほど武力暴力を忌み嫌うなら20世紀の共産主義革命をどう評価するのか。レーニンや毛沢東は政権を禅譲されたとでも言うのか。また、歴史的な史実として世界的に有名なこと、スターリンが自国の革命完成のため自作農を2,000万人以上殺害した事、毛沢東が文化大革命と称した権力闘争で2,500万人もの中国人を粛清した事、この2つのことをどう説明するのか。共産党は公党でありながら、憲法を守るといいながら未だに参議院での国会の開会式は天皇陛下が臨席するということで常に欠席である。天皇の臨席は法律で定められた天皇の国事行為の一つである。議会の開会からルール違反をやっておいて何が公党だ、笑わせるな。お前たち、そんなことやっててパスポートよもや所持してないやろね。日本のパスポートには皇室のマークの菊のご紋が入っているのだぞ

公明党、お前等いま共産党より嫌われ者ちゅうこと知ってるか?
念仏唱えとったら平和が来るのか、ええかげんにさらせ。
与党の中で自分たちだけが平和主義者みたいな顔作るな、アホ。


すんまへんでした、悪乗りしてしまった。

でも、テロには断固として戦わねばならない。

我々日本人はどんな主義主張を、もっていようとも、ほとんどが高度に発達した文明社会の恩恵を受けているのである、と同時に大きく海外に依存しているのである。資源に乏しいわが国は原油や食料をはじめとする多くの原材料を輸入している。そしてそれらを調達するための外貨は工業製品を欧米を中心とした海外の国々に買ってもらうことによって得ているのである。

先進国の中で日本だけがテロを対岸の火事と眺め、テロを撲滅するための武力行使に反対できるだろうか。商売だけ欧米とお付き合いしてあとはほっかむりできるのか。

テレビもパソコンもないような山中で生活できるというのであるならともかく、もちろんそんな事は大多数の日本人には絶対不可能である、国益を守り今の生活レベルを守りたいのであればテロは断固として許してはいけないのである。
やはり今回のことでまず思い出すのは10年前の湾岸戦争である。当時日本は1兆2千億円もの戦費を多国籍軍に拠出した。多分ヨーロッパの小国(オランダやベルギー)の年間国家予算に近いものがあろう。にもかからわず世界の国々からほとんど評価もされなかった。なぜならば、全く汗も血も流さなかったからである。そのころ欧米人から日本人がよく次のように言われていじめられたそうである。


「日本はまるで多国籍軍に貢献していない、どうなっているのだ」

「何を言っている、一人当たり100ドルも戦費を負担しているのだぞ」

「そうか、わかった、それじゃ俺が君に個人的に100ドルあげるから戦争に行ってくれ」

・・・


この言い方が論理的におかしいのは当然なのだが、残念な事に世界ではこのような言い方の方がよく受けるのである、感情的に良く理解されやすいのである。

それを日本人は理解しないといけない。

また、私はよくこのページで国益という表現を使うが、国益一番という考え方が日本以外では行動の基本原則なのである。

日本で国益と言うと右翼といわれる、愛国心というと軍国主義といわれる、さすれば世界中は日本以外みんな右翼であり軍国主義の国ばかりである。


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自分の国の利益を主張して何が悪いのか、あなたは日本人ではないのか、自分の家族を愛するように自国を愛して何が悪いのか、あなたの国籍は?

戦うことを忘れ享楽に耽る民族は滅亡するのみである。歴史が証明している。

ニューヨークのテロは日本人の意識改革のきっかけとなり、
平和ボケと言われ、自らの欲ばかりしか考えなくなっていた多くの日本人への大きな問題提起となったことと私は信じる。



◆ Back Number ◆
2005.07 Cut & Polished in Belgium
2005.04 ルフトハンザで出国
2005.02 オリーブの漬物
2004.11 ベルギーの初冬
2004.9 上手なブラフの使い方?
2004.8 2004アジアカップ
2004.4 ゴールデンウィーク に オランダ を想う・・・。
2003.11 Believe me!
2003.7 Vacances!
2003.5 日本とベルギーの規範
2003.3 ベルギー名物と言えば
2002.9 空港のネーミングについて
2002.5 ワールドカップ
2002.3 ひな祭り
2002.2 ユーロとトラブル
2001.12 プリンセス雑感
2001.11 ニューヨークの思い出
2001.9 不景気とは
2001.7 女子テニスプレーヤーというのは宝石だらけで戦っている・・・。
2000.4 ファンシーカットの好みは各国でかなり違うようだ・・・。
2000.2 天然の物が相手になるがゆえのつらさ、というのが常にある。
1999.12 私はダイアモンド業界ではゴルフの世界の尾崎みたいなものだ、といって自己紹介することにしている・・・